仲村竜之介
仲村竜之介
BCリーグ・新潟アルビレックスへ入団。ビッグ開発ベースボールクラブ
2015-01-15
小学校6年で捕手というポジションに出会い、以後捕手ひとすじ。沖縄尚学では1年の秋からレギュラー捕手の座に座り、打撃でも中軸を担った。しかし大学時代はモチベーションが上がらない日々を過ごしたまま控え捕手に甘んじる。それでも野球をやりたい気持ちを捨てきれず、もう一度野球に真剣に向き合いたいとビッグ開発の門を叩く。それから3年、さらに上のレベルを目指したいと独立リーグでのチャレンジが始まる。
野球を始めたのはいつですか
「小学校2年生のときに友人に誘いで地元の少年野球チーム玉城スイミーの練習に参加しました。それが始まりです」
キャッチャーをやるようになったのは
「小学校6年生の新チームになってから。理由ははっきり覚えていないけどチーム事情だったと思います。試合に出始めた5年生の頃はサードを守って、それからキャッチャーへ移りました」
中学校時代はどうでしたか
「玉城中学校で軟式でした。中学に上がってからは、ずっとキャッチャーです。一番守りやすいというかしっくりくると感じがして。自信を持って守れるポジションだと思いました。中学時代は、最後の大会で県大会に出場できましたが一回戦負けでした」
沖縄尚学へ進学を決めたのは
「もちろん高校でも野球を続けるつもりでしたが、どこ行くか迷っていました。正直、絶対に強い高校、名門に行って野球をやろういう強い気持ちがあったわけでもなかった。そんな時に、小学校時代のコーチに沖尚はどうかと勧められました。そのコーチの息子も沖尚に通っていたこともあり、それがきっかけで沖尚に入学することを決めました」沖縄尚学に入学したあとは
「1年生のときは、部員も多いし、各地からうまい選手も集まってきていて、1日の練習をこなすので精一杯。それに練習時間が長くて、その分1日1日の練習がキツかったです。入学当初は、だいぶキツかったという印象しか残っていないです。」
入学した頃は角田監督でした?
「角田先生には厳しい指導を受けました。練習中は緊張感が常にありました。声とか覇気が出てない選手には特に厳しかった。自分から試合に出たいとかレギュラーを奪いたいとか、そういう気持ちを前面に出さないと落とされる。そういう面では自分からアピールするということを覚えました。・・・厳しかった」
レギュラーになったのは
「1年生の秋です。3年生が引退してから、練習でも少し余裕が出て野球にも集中できるようになってきて、徐々に試合にも出してもらえるようになりました。もちろんライバルもいて、争っている状況で、むこうを出したり自分が出たりと交互に使ってもらい、最終的にレギュラーを掴んだという形になりました。」
高校時代を振り返ってみて思うことは
「最初は厳しくて一日一日が常に大変だったけど、それがあったからこそ自分も成長できたと思うし、そういう環境が合っていたのかと今では思います。いろいろなキツい場面も乗り越えられる精神力もついたと思うし、今となったらああいうキツいというか辛い体験をしてきて良かったなと思えます」
高校時代に最も印象に残っていることは
「最後の試合です。夏の準決勝の浦添商業戦。相手の投手が、今、沖電にいる伊波翔悟。延長戦に入ってワンアウト3塁の場面で打席がまわってきました。ランナーを返せばサヨナラという場面だったのですが、三振をしてしまって。それが悔しくてかなり印象に残っています」
そして首都大学リーグ一部の帝京大学へ進学。
「進路を決めるときに、1年生の冬までお世話になっていた角田先生に相談をしました。当時、角田先生は岡山の作陽高校で監督。その作陽高校の選手と二人で帝京大学のセレクションを受けたらどうかと勧められて、そのセレクションに受かり入学しました」
大学時代の成績はどうでしたか
「大学時代、3年生、4年生の頃は、ベンチにはいましたが試合の出場機会は、ほとんどなかったです。試合に出たといっても途中から出たり、途中で交代したりでした。1・2年生の頃は全く試合に出ていません。サポートや、ブルペンキャッチャー、スタンドでの応援だったりでした」
大学時代はあまり良くなかったのですか
「自分が弱かったせいで、どこか違う方向にずれて野球に打ち込んでいなかった。もう少しちゃんと野球に取り組んでおけば良かったなという思いが強いです。そうすれば、もう少し試合には出られたんじゃないかと。それが何より悔いというか、もったいない4年間だったなと思っています。その気持ちが強い分、まだ野球を続けているかなというのもあります」
そのような大学時代を過ごしたにも関わらず野球を続けようと思ったのは
「それでも野球をやりたいという気持ちだけは自分の中にずっとありました。不完全燃焼のままでは終われないという気持ちが芽生えてきて。卒業後も野球を続けたくて、当時、ビッグにいた大学の先輩でもある渡嘉敷さん(貴彦=現BCリーグ信濃グランセローズ)に相談しました。渡嘉敷さんが取り持ってくれて大学4年の夏にビッグの練習へ参加して、入部OKをいただきました」
ビッグ開発BBCに入って変わったことは
「高校は厳しかったのですが、大学時代は本当に緩みきった自分がいたので、一つ一つの行動意識が本当にがらっと180度変わりました。一気に気を引き締める行動になれたのは、会長(監督)の指導であり、ビッグ開発の教育指導のおかげだと感謝しています。常日頃から人間性や人間力、野球以外の普段の一社会人として行動を強く指導されるので、自分はそこを心がけて日々行動してきました。野球の面でも全力疾走や審判、相手選手への挨拶など、技術どうこうよりもグランドの中でも人間性や感性、マナーを多く指導されてきました。人間性の面では、いろいろと考えさせられることも多くありました。少しずつですが成長できたのではないかなと思います」
技術的にはどうですか
「もちろん練習量も増えましたし、全体練習だけでなく個人練習も自ら進んでやるようになりました。そういう面では少しは野球の技術面でも成長できたと思います。自分の中では、まだまだ思ったように送球がいかないとか、思ったようにバッティングができないとか、満足できるレベルではないので、もっともっと練習して、自分が納得できるプレーを目指してやっていきたいなと思います」
捕手として心がけていることは
「ピッチャー個人個人、それぞれ特徴とか性格が違うので、リードとか声かけでそのピッチャーの良さを引き出せるように心がけつつ、ときには引っ張るくらいの強気なリードというか、いろんな意味で歯車のあったリード、配球は心がけています。
それと、まわりに信頼されるようなプレーであったり立ち振る舞い方をするように心がけています。
独立リーグに行こうと思ったきかけは?
「やっぱり渡嘉敷さんの存在が大きかったです。渡嘉敷さんは、一昨年、ドラフト1位で信濃グランセローズ、長野の独立チームに行ったのですけど、いろいろな活躍とか独立リーグの情報などを聞く機会がありまして。話を聞いていると、BCリーグは、NPB(日本プロ野球機構)を目指して集まってくる選手ばかりなので、そのような環境で自分もプレーしてみたいなと強く思うようになりました」
そして、昨年11月にBCリーグのトライアウト
「高いレベルに行って、どれだけ通用するのか、自分がどこまでできるのかという、自分の可能性というのを確かめたいというのもありました。NPB(日本プロ野球機構)に挑戦できるくらいの環境で、NPB入りを目標にして、しっかりともう一度野球に取り組んでいきたいと思い、BCリーグ入りを目指しました」
トライアウトはどうでしたか
「関西会場と関東会場があって、自分は関西会場で受けました。一次試験がまず50m走、遠投、シートノック、フリーバッティング。二次試験は、同じくトライアウトに参加しているピッチャーが投げた球を打つという実戦形式でした。これを一日で行いました。後日ドラフト会議があって、選ばれた選手は採られていくという仕組みです。渡嘉敷さんから、プレー以外のところも見ていると言われていたので、全力疾走とかそういう部分も心がけながらトライアウトに臨みました。」
いよいよ独立リーグでの挑戦が始まりますね
「NPBを目指すには、年齢的にも自分はギリギリのところ。最後のチャンスという意味でも、納得がいくとこまで、しっかりと野球をやりきりたい。行くからにはもちろんレギュラーを奪って活躍することですが、目指すところはもっともっと先にあるので、そのためにも結果を残して、会長や、いろんな方々からの期待もあると思うので、それに応えられるように一日一日頑張っていきたいと思います。」
アピールポイントは
「会長からたまに褒められることがあるのですが、大きい声。それと勝負強いバッティング。新潟では、もちろんバッティングも強く意識しますが、キャッチャーなのでバッティングよりも守備とか、リード面が求められると思うので、それと同時に守備面も安定させて、まず守備からチームに貢献できればと思います」
Profiel
新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ
BCリーグ(ベースボール・チャレンジ・リーグ)
群馬県民球団 | 群馬ダイヤモンドペガサス |
新潟県民球団 | 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ |
長野県民球団 | 信濃グランセローズ |
富山県民球団 | 富山サンダーバーズ |
石川県民球団 | 石川ミリオンスターズ |
福井県民球団 | 福井ミラクルエレファンツ |
≪新加盟≫ | |
埼玉県民球団 | 武蔵ヒートベアーズ |
福島県民球団 | 福島ホープス |