與那原大剛(普天間高校)
與那原大剛(普天間高校)
目指すは読売巨人軍、そして日本のエース!
2015-11-15
「ホントに指名されるのか、ずっと不安でした。」與那原大剛(以下、大剛)は、ドラフト会議のために用意された部屋で、誰にも明かせない胸中を押し殺していた。指名してくれるとしても5位以下だろうな。そんな風に思っていた彼の耳に、あの独特の言葉は入って来なかったという。
「選択希望選手。読売、與那原大剛、17歳、投手、普天間高校」
「隣で座ってくれていた知念先生がよしっ!と喜んで。そこでえっ、と思った次第です(苦笑)。」
主要な県大会でも最後の夏のベスト8が最高位なのだから無理も無い。だが、まぎれもなく彼は、プロ野球選手になるというスタートラインに立ったのだ。
ほんの一握りの選手にしか掴めない夢を叶えた男は、どのような野球人生を送ってきたのだろう。
彼の父親である寛勇氏と、彼の学童時代の恩師である仲尾次氏の話も交えながら紹介していこう。
サッカー少年が野球に魅せられて北玉ライオンズのエースへ
「あれは一緒に海に行ったときでした。誰もいない海に向かって大剛が石を投げたのですが、肘の抜き方や使い方が上手かった。」と、寛勇氏は振り返る。
元来の巨人ファンであった寛勇氏は、巨人戦の生中継を大剛と一緒に視るのが楽しみでもあった。
「きっと江川投手が投げるのを視てて、それで会得しちゃったのかも。」だが、大剛はやんわりと否定。
「いえ、僕はサッカーが好きでしたから(苦笑)。」だが投げ方を教えられていない子供が、腕を綺麗にしならせて放れるほど野球は簡単ではない。
そんな天性のものを持つ息子をどうにかして野球の道へ。。。寛勇氏の思いが叶うのは、大剛が3年生のときだった。
学童クラブで仲良しだった友達とキャッチボールで遊んでいた大剛は、彼から「オレ、明日から野球部に入る」と聞く。
時を同じくして、読谷村で行われた喜名キングと北玉ライオンズの試合を、寛勇氏と観に行き感化された大剛はついにライオンズの門を叩いた。
そのときコーチとしてチームの低学年を教えていたのが、後に監督となる仲尾次氏だ。
「最初の印象は、スローイングが誰よりも綺麗なのはもちろんですが、ゴロの捕り方も凄く上手かった。」すでに個人練習として壁当てを日課としていた大剛のグラブ捌きは群を抜き、4年生で代表チームのベンチ入りメンバーを果たしていた。
大剛の投手としての才能も見抜いていた仲尾次氏は、「絶対にひーろー(大剛)は凄いピッチャーになるから。このような大きな大会で、せめて1イニングでもいいから投げさせて下さい」と、当時の監督であった仲村渠氏に願い出た。
「その試合は覚えています。」と大剛。
山口県下関市での県外派遣大会で、相手の上級生たちを向こうに回した4年生の大剛は、その1イニングをピシャりと抑える。
これでひとつの自身を得た大剛は5年生になると、誰もが認めるチームのエースとしてマウンドに立ち続けることとなっていった。
悔し涙を流してはそれを糧に。そして掴んだ千葉県での優勝
仲尾次氏 「高原小学校での北美ファイターズとの試合でサヨナラボーク。そこで号泣したんです。」
大剛が5年生のとき、沖縄ブロックでは北美ファイターズと与儀ファイターズが二強の時代。
その北美との試合、大剛は粘り強く投げ同点のまま7回を終えた。無死満塁から始まる特別ルールで、8回表のライオンズの攻撃はまさかの無得点。その裏、「当然スクイズを仕掛けてくる」とベンチもバッテリーも分かっていた。
初球外せのサインに頷いた大剛は、三塁走者を牽制しながらモーションに入る。だが。
大剛 「外に構えていたはずのキャッチャーが、真ん中あたりにミットをずらしてきた。やっぱり勝負しようということだったでしょうが、僕には待て!に見えて。持っていたボールをそのまま離さずに腕を振ってしまいました。」
ボークを宣告された大剛はその場で号泣。しかし、人目をはばからず思い切り悔し涙を流す少年が、今の時代はたして何人いるだろう。
當山 「6年生が引退しての新チーム初の公式戦が中部北支部新人大会。そこで志林川ファイターズに敗れて号泣した彼を見たのが最初。そして春のブロック戦で比屋根タイガースに敗れたときも目が真っ赤のまま、最後の打席に向かう大剛くんの姿が印象に残ってます。」
だが、少年は負けっぱなしで終わることはなかった。
夏のブロック大会で再び比屋根と対戦。春の県大会で頂点を極めていた相手を、なんとノーヒットノーランで下したのだ。
これで波に乗ったライオンズは決勝へ進出し野原陽介(宜野湾高校)、そしてヤクルトからドラフト4位指名を受けた日隈ジュリアス(高知中央高校)が牽引する浜川ジャイアンツと対戦して見事勝利を収め、県大会出場を決める。
そこでは初戦に勝利を収めたものの、岡田樹(糸満高校)のいるパークタウンに敗退してしまったが、ライオンズと大剛にとって一番の栄光となったのは、千葉県での選抜大会だ。
北海道選抜、茨城選抜など、各都道府県の冠を記した相手チームは、代表選手を集めて臨んできた。
仲尾次氏 「大会先日に、開催者の計らいで試合を組ませてもらったのですが、違うユニフォームに身を包んだ背番号1が5人もいました。」
いざ大会初戦。前評判の高いチームを向こうに回した大剛だったが、最小失点に抑えて勝利に貢献すると、あれよあれよと勝ち進み優勝した。こうして学童時代を経た舞台は桑江中学へと移っていくが、中学軟式野球での大剛は成長痛に悩まされながらも、県大会出場を果たすなど徐々に力をつけていった。
身体を大きくした意外な食べ物
中学軟式野球選手権大会が終わったあとの新チームで、1年生の大剛はショートとしてレギュラーを掴む。2年生になっての新チームでは、エースとしてポカリスエット杯の県大会に出場を果たし初戦に勝利を収めるが、それ以降は成長に伴う身体の痛みとの戦いに明け暮れる。
大剛 「小学校卒業時154 cmでしたが、1年に10cmずつ伸びて。中学卒業時は184cmになっていました。」
寛勇氏 「身体を大きくする秘訣はソーメンです。夏はそれこそ束が無くなるくらい、良く食べてました。」
大剛 「カップラーメンといったものは食べたことがない。親が用意するのは全部ソーメンでした(苦笑)。」
30cmも伸びるとはなんとも羨ましい話に聞こえるが、当の本人は大変。その後の新人大会と翌年の海邦銀行杯では負担の少ないファーストとして試合に出場するが、ピッチャー大剛の代役は簡単に埋まらない。
中頭地区での敗戦を繰り返して、最後の選手権大会前にようやく痛みが消えてマウンドへ戻った大剛。
その結果二度目の県大会出場を得るも、佐久本一輝(興南高校)率いる屋部中学の前に惜敗して中学野球の終焉を迎えたが、ここで大剛が得た一番の宝は身体の成長と、一緒の高校に進んでそこで1番になろうと約束した渡名喜守哉に出会えたことだっただろう。
さらに大剛にはもうひとつの夢があった。高校卒でプロ野球選手になるという目標だ。
仲尾次氏 「ひーろーに伝えたのは、例えば高校の3年間で2回完全試合をやってみろと。または150Kmを出せと。打者なら50m 5秒台だったり、ホームランバッターなら40、50本をマークしたらプロは注目する。
何故みんな、最初はプロ野球選手になりたいと言うけど、中学になって変な自覚が芽生え始めると、甲子園に出ないと無理だよなと言ったりしながら夢を諦めるのか不思議です。」
その恩師の言葉を胸に刻んだ大剛は、高校で150Kmを出してプロへ行くという決意を強く持ったのだった。
148Kmのストレートで中部地区高校野球大会優勝
普天間高校で新たに野球をスタートした大剛は、1年の秋には短いイニングながら早くもマウンドを経験。
翌年の春季県大会ではエースの大城爽生との2本柱となっていた。
春を終えて、「これまでのマウンドでの経験と度胸が大剛にはあったので抑えを任せた」と、当時監督を務めていた知念先生(現普天間高校部長)の下で投げ続けたが、夏の選手権沖縄大会では浦添商業高校に逆転負けを喫してしまった。
バッティングも非凡なものを見せていた大剛は、大城が先発で投げている間にレフトで4番として走り回ってチームに貢献していたが、体力がついてこなかった。
そのツケは自らが最上級生となる秋の県大会でも戻らず、本来の球威からは程遠い出来のまま北中城高校に二桁安打を浴びて敗退してしまった。
しかし11月の練習試合で見違えるようなボールを放ると、冬トレで蓄えたパワーを一気に開放するように春季県大会で148Kmの快速球を披露。
そして中部地区高校野球大会で嘉手納高校、具志川商業高校、さらに秋の王者である中部商業高校戦と、3試合連続完封の離れ業をやってのけ、決勝で対峙した前原高校との延長12回をも一人で投げ抜き優勝したのだ。
145Kmを超える豪腕に、強豪校を倒しての大会優勝という自信が備われば怖いものは無かった。
スカウトが終結した試合で見事なピッチングを披露
高校野球集大成となる3年最後の夏。大剛率いる普天間高校は初戦で八重山商工高校と対戦。
宜野湾市民球場のバックネット裏には、11球団ものスカウト陣が張り付く。彼らの目当てはもちろん大剛だ。
その初戦は、一進一退の攻防で延長に突入するも雷雨コールドで翌日再試合となる波乱のスタートとなったが、疲れを考慮し、逆に下半身主導のピッチングに変えた大剛が八重山商工打線を被安打3の完封で勝利すると、続く前原高校戦でも延長13回を投げ一気に夏の主役へと躍り出た。
3回戦の沖縄工業高校戦でも無失点の好投を見せたが、ここで血マメを潰してしまうアクシデントに見舞われる。
準々決勝の相手は、春の県大会で敗れた沖縄尚学高校。監督と話し合った結果、「投げます」と大剛は答える。
試合が徐々に迫ってくる中、気合が入りすぎた大剛は直前で再びマメを潰す。既にオーダー提出していたため大剛は初回のマウンドにいつものように上ったが、そのイニングのみで降板。
同点のまま終盤に差し掛かった8回裏、沖縄尚学ペースだと感じた知念監督は決断した。
「場の雰囲気を一気に変えられるのは大剛しかいないと。ここで抑えてもらい、9回の攻撃で突き放すことが出来れば勝利が見えてくる。」逆に言えば、手負いの大剛では延長は無理。
9回の攻撃に全てを懸ける。そんな背水の陣にも似た作戦に、大剛は燃えた。
雨で70分間の中断後、再びマウンドへ上った大剛は、二者連続三振とレフトフライに討ち取り三者凡退でベンチへ。普天間高校の応援団はもちろん、大剛の男気ピッチングに魅せられたファンの歓声で北谷公園野球場は膨れ上がった。
そして9回表、普天間高校は二者が倒れるも大剛と浜畑維の連続ヒットで一・二塁とする。
だが後続が倒れるとその裏、三者連続安打を浴びた大剛の目の前で、沖縄尚学の知念大河がホームを踏みサヨナラ負け。こうして大剛の高校野球のステージは終わりを告げた。
運命のドラフト会議で読売巨人軍から指名
大剛 「友達がネットで調べてて。関東の球団が與那原を指名検討と。でも甲子園も出ていない無名の僕がドラフトにかかるのだろうかと不安で不安で。」
外れたらみんなに何と言って顔向けすればいいのだろう。そんな胸中を隠しつつ、ドラフト会議はどんどん進んでいく。そして運命の三巡目。
指名されなかったらどうしようとばかり考えていた大剛は、知念先生や周りの歓喜とともに、自分の名前がテレビに映っているのを自身で確認しても、しばらくは実感がわかずにいたのだという。それはそうと、指名してくれた巨人軍の印象を大剛はどう思っているのだろう。
大剛 「長い伝統がある素晴らしい球団でプロ野球の中でもスター選手が集まってくるのがジャイアンツ。自分の憧れは日本ハムファイターズの大谷翔平さんですが、ジャイアンツにお世話になると決めた以上は、エースになりたい。現在ジャイアンツのエースは菅野智之さん。菅野さんに近づけるように努力していきたいと思ってます。」
夢であり、目標であったプロ野球選手の道を掴んだ大剛から最後に、後輩たちに向けてメッセージを語ってもらった。
大剛 「少年野球の人口が減ってきていると聞いて寂しく思ってます。そんな中で自分とジュリアスがドラフトに指名してもらったことで、歯止めが少しでもあればなと思います。また、普天間高校に入ってきて、プロを目指すという選手は殆どいなかったのではないでしょうか。えっ、お前が?と、他人にバカにされるくらいの夢がちょうどいいのだと、小さい野球少年たちに伝えたいですね。」
仲尾次氏 「子供を愛する、子供たちとの距離を感じさせないプロ選手になってほしい。その過程で巨人のエース、そして日本を代表するエースへと成長していってくれることを願ってます。」
中日ドラゴンズに2位指名された又吉克樹も、何故みんな高校野球で終わってプロになることを諦めるのか分からないと語った。最後は自分のように諦めない者が勝つのだと知ったとも教えてくれた。
そして、他人に笑われるくらいの大きな夢を持ち続けることが大切と語る大剛も、どこかで失笑を買っていた。
それでも自分を信じて諦めない姿勢が、ドラフト会議で指名を得るという夢に繋がったのだ。まだまだ未完の域を出ない與那原大剛。その大器がプロで覚醒することを望みつつ、僕らは彼をずっと応援し続けていきたいと心から思う。チバリヨー!大剛!