砂川正美×柴引宏之 / おきなわ野球大好きスペシャル対談!

砂川正美×柴引宏之

おきなわ野球大好きスペシャル対談!

2015-05-15

甲子園に息子を送り続けた父親

述べ8度も甲子園の土を踏んだ息子たちの父である砂川正美氏と、同じく4度、聖地で躍動した息子たちを持つ柴引宏之氏。
1度だけでも、と思う大勢の親が、その夢を叶えられずにいる中、何度もその夢を手した両氏の対談がついに実現!。
おきなわ野球大好と、その読者に、その秘密から今後の野球界への思いまで語ってくれました。

少年野球の原点はぷーかー野球

當山 「お忙しいところお越しいただきありがとうございます。立派な息子さんたちのお話を伺う前に、カッコイイ父親となったお二人の、少年時代にどうやって野球に関わっていったのかという話から伺いたいと思います。」

砂川「二人は70年代(生まれ)なんだ。それじゃ僕が(小学校)中学年のときに生まれたんだね。僕なんかの時代はそれこそ、ぷーかーのボールでも持っていたら、ヒーローですよ。それこそ(当時の)豊見城高校みたいに、新聞をガムテープなどで巻いて使うのが主流。バットなんて、工事現場の角材があるよね。あれを、グリップのところだけ握りやすいように削って使っていた。僕らの年代はこれが野球の始まりです。」

柴引「自分は2人の兄貴がいて、すぐ上の兄貴が野球していて、付き合わされて始めましたね。恥ずかしい話なのですが、小学校4年生まではボールなんて全然キャッチ出来なかったですね。いつも兄貴におちょくられていました。」

當山 「そういう状況が続くと、普通は野球ってイヤだな、と思うじゃないですか。それでも続けられたというのは?」

柴引「そうですね。僕、肩は強かったのですね。それで兄貴がキャッチャーしていたということもあって、僕のボールを受けてくれて。そんな僕はピッチャーとして高校まで歩んでいくことになるわけです。でも、今の子供たちって野球上手いですよね。」

砂川「上手いよぉ。自分なんかは、工事現場に捨てられていたベニヤ板を四角に切ってベース代わりにしててね。ま、上手下手というのは置いといて、(楽しみが)野球しかなかったから。4,5人集まれば野球ばっかりしていましたね。現場に行けばバットもいくらでもあるしね(笑)。その代わり、ゴム草履だからたまに釘を踏んだりしてね。それにしても、あのぷーかーボールというのは凄く良いですよね。」

柴引「僕思うのですが、低学年の子供たちはぷーかー野球やらせた方がいいと思いますよ。自分たちって、学校の廊下で挟みぐゎー(挟殺プレー)やりましたよね。あれって(その後の野球が上手くなっていくことに繋がるくらい)大きいですよね。ぷーかーボールというのはきちんと捕らないと弾いてしまう。捕るには柔らかく包み込むようにしなきゃいけないことを覚えていく。あと、挟みのプレーをすることで相手の裏をかくことを覚えていく。理にかなっていますよね。」

柴引「僕らの時代の高学年たちっていうのは、誰かがテニスボールを買ってもらったなら、それまで余り友達付き合いしてなかった子でも、おーい、一緒にやろうぜ!ってね。色々な変化もするものだから、自然とそれに対応出来るバッティングも身についてね。あれはホント理にかなったものですよね。」

柴引「ぷーかー野球というのは、原点じゃないですかね。」

少年野球の現状と今後

砂川「昔、僕らが好き勝手やっていたのと、(今の子は)レベルが全然違うのだけど、でも僕らは良い練習をしていたよね。今の指導者も楽しいと思いますよ。でもその反面、大変なこともあるじゃないですか。自分らの家庭、プライベート、色々。僕のように、子供が卒業して、好きなことをやれるのだったら問題ない。

しかし現役の指導者たちの殆どが、小学生の子供はもちろん、もっと小さい子がいる中で監督を務めてらっしゃる。偉いなって思うし、自分の子供が卒業していっても、地域の子供たちに情熱を持って教えたいという人も凄い。僕、10年近くコーチや監督として携わってきたけど、最初の頃はホントに、小学生に野球を教えることは難しいなって思った。

高校、大学、社会人野球で、こう言っちゃ生意気だけど高いレベルで野球をしてきてね。ある日女房が『お父さん、監督たちがときどき教えにきてよって言っていますよ』と。オレが今更少年野球か?って最初は思っていました。年も30代前半で仕事も忙しい。車のセールスマンをしていたから土日はゴルフの接待もやらなきゃいけなかった。」

當山 「そんな砂川さんが学童野球に惹かれていく」

砂川「あるきっかけで、練習試合を観る機会があってね。余りにも一所懸命プレーしている子供の姿に胸を打たれましたね。

よし、やってみようと。でも当初は教えることって中々出来ない。でも指導者として2年3年と続けていくことによって周りが見え始めてくると、色々な指導者がいるわけですよ。大ベテランから僕らのように若いけど野球経験者だったり。

そして残念なことも見えてくる。ある指導者は、頑張っているのは伝わるのだけど、子供を使って、自分たちの喜びや指導者としての価値観などを満たすような方々がいると。

また、野球を教えるのは上手だけど、人間力が伴っていない。でないとあのような怒鳴り方はしないだろって。まだ小学生なのに、凄く落ち込ませるような言い方をする。でもね、怖い顔をしても冷静に叱ってくれているという指導者もいるわけですよ。

何のために子供たちに野球を教えているのかということを、例えば監督会研修みたく集めて学ばないといけない。」

柴引「以前は、ホントに野球がしたいって子が集まってきていたのですね。今の子は、土日の朝、グラウンドにやってきても言われるまでラインも引かない、準備もしない。

ま、正直僕も叱ります。そんな状態だから、野球を教えるのは二の次といった感じで僕も歯がゆい。試合に関して、コーチにも徹底しているチームの方針は、積極的なエラーや三振では怒るなと。それよりも中身ですよね。

振ってこいと言っているのに見逃しする子は交代しますし、起きて、やる気がないなと感じたらどうぞ休みなさいとまで言いますね。」

當山 「そんな(やる気が起きない)子は、来ても一日中叱られてばっかりになる。」

柴引「そうです。たかが少年野球、されど少年野球。僕はひとつのゴールは高校野球だと思っています。

その後はね、個人の力だったり縁だったり。良介の場合も、県外へ行くとなったとき、砂川さんへ相談したのです。正直、あのときの自分は、なんで内地なんだよと。」

砂川「最初は大変だっただろうけど、今となっては良かったと思える。」

柴引「その通りですね。あれは一昨年秋の関東大会で山梨学院大付に勝っていて。

でも良介の、新聞では内野安打とあったが、あれはエラーですね。それで負けてしまった。

でもホテルで自分から監督の部屋を訪れて、『自分のせいで負けてしまった。申し訳ないです』と言い、絶対に甲子園へ行くぞと強く思った。あの負けから彼は変わりましたね。」

甲子園の魅力が周りをも動かす

當山 「お二人は、ぞれぞれの息子さんを甲子園で応援なさった。そのときのお気持ちってどうでしたか?」

柴引「(佑真のときの)沖縄尚学では地元でもあるし、皆さん、応援よろしくお願いしますって堂々と言いやすかったけど、群馬だし。去った選抜だって、もし天理に糸満が勝っていたなら、ウチと当たっていた。やっぱりイヤですよね。砂川さんはどうでした?」

砂川「同級生の哲平と洋奨(ソフトバンク)が対戦してね。でも親としては子供を応援するのが当然ですから。そうそ、柴引さん。佑真はそのまま地元から甲子園でしたが、良介は全く違う地からのユニフォームで甲子園出場。両方とも感動はあるけど、でも全然違うよね。」

柴引「呼ばれて行ったわけだけど、レギュラーの確証はもちろん無い。県外にいる良介の頑張り度も、随時見られるような県内とは違いますから、やっぱり感慨深いものはありますよね。」

砂川「そこだよね。息子ながら、知らない土地で頑張ってきた結果、甲子園の土を踏んでいる。野球以外のことに思いを馳せる感動だよね。」

柴引「親としての思いはそうですが、自分らも高校球児として目指していた時代があった。そう思うと子供ではあるけど羨ましかった。甲子園でプレーが出来るのですから。」

砂川「哲平は今宮健太(ソフトバンク)らとともに夏ベスト8まで進んだ。花巻東の菊池雄星(西武)ともやったりして、大勢の観客の中でプレーした。

彼が話してくれたけど、甲子園というところは、ボールが外野へ飛んでいくと、ヒットを願うアルプスからの大歓声が起こるし、それを好捕するとシュンと静まる。グラウンドに居る僕らが指揮者のような存在なのだと。

そういう場所でプレーするには、舞い上がっていてはダメ。何万人という人がオレを見ている、と考えてしまったら何も出来ない。声やその他に意識を取られず、いかに自分のプレーに集中出来るか!甲子園だからといって、バッテリー間が二倍の距離になるわけじゃない。」

柴引「哲平くんにしても修くんにしても、大観衆の前という意味では落ち着いていたのではありませんか。佑真も良介も、観衆がいれば燃えると言っていましたね。群馬大会で前橋育英の光成(西武)とやったときも、県大会では滅多に見られないほどの超満員でしたけど、良介はそれで燃えているようでしたね。」

砂川「哲平が最後の夏も甲子園へ行くからと行ったときに、それじゃオレはそれが決定するまで大好きな酒を断つぞと。ホントに一滴も飲まなかった。」

柴引「いま、僕がそれをやっています。元は秋の大会から、選抜が決まるまで断酒しようと向こうの親と一緒になってね。今は最後の夏のために続けている。もちろん飲んだからどうのこうのというのは関係ないのだけど、子供は頑張っているのに、そういう自分が飲んでしまったら、子供の努力が水の泡になってしまうような気がして。」

砂川「誰が見ているわけでもない場所だと誘惑が来るけど、イヤイヤ、もしもこの一杯を飲んで、甲子園に行けなかったらオレのせいになると。こういうことの積み重ねが、目に見えない幸運だったり縁だったりを運んでくるものだと僕は思っている。例えば女の子が、あの選手のために大好きなチョコを我慢するとかね。

そういった感じで応援してもらえるような選手になるというのは大事。運を誰かが運んでくれる。だからこそ、一番身近な親が、お前のために父さんやってやるぜ!という姿勢は大切なんだよね。」

當山 「目指す選手だけでなく、親の気持ちも周りの気持ちも動かす。甲子園って凄いですね。力がありますよね。」

砂川「スタッフ、運営係、演出者、球場の造り、雰囲気。その全てが、ここに来て良かったって思えるんだよね。大げさでなく、歴代の高校球児たちの血と汗と歴史とドラマが詰まっている。」

運を呼び込むには

砂川「例えば二死二塁。滅多に打たない子が打席に立った。案の定ドン詰まりだったけど、フラフラとセカンドの後ろに上がってポトリと落ちた。これこそがナイスヒットなんだよ、本番ではね。」

當山 「中京大中京と日本文理もそうですよね。最後の打者となってしまったけど、彼は真芯で捉えていたのに、サードの正面でグラブに収まって負け。」

柴引「本番では結果が全てですから。」

砂川「甲子園に行くための黄金の五箇条があって。一つは自分のファンを増やすこと。彼らが運を自分に運んでくる。そのファンを増やすためには挨拶の達人になるんだよと息子たちに教えた。」

あ→あいてより
い→いつでも
さ→さきに
つ→つたわるように

砂川「その挨拶が出来るためには、今度は勇気とタイミングと間が必要だよと。これは、勇気を持って打席に入り、タイミングと間を合わせて打つバッティングや守備と一緒なんだよと教えて。挨拶は相当奥が深くてね。

甲子園に行きたい、夢を叶えたいと真剣に思っている子はまず挨拶からはじめることなんだよね。しっかりとした挨拶で打席に入れる子は、心の筋肉もついてくる。」

柴引「野球に限らず、強いチームで挨拶が出来ない子は絶対いないですからね。」

砂川「甲子園に出てくるチームは、バスを降りて球場に向かう間もキチンと整列して歩く。強いチームっていうのは歩き方から違う。」

當山 「春夏連覇の興南戦士たちもそうですよね。そうじゃなきゃ、東京六大学や東都大学へ行くばかりでなく、そこでキャプテンなんてなれない。」

柴引「野球が出来るだけでなく、人間力が備わっていましたよね。」

甲子園出場の夢を叶えた子供たちを育てたのは母親の力

當山 「佑真もそうでしたが、良介はさらにチャンスに強い。その勝負強さというのは、親としてどのように育ててきたかということを教えてもらえますか」

柴引「佑真は小学一年生になって野球を始めましたが、それまではサッカー少年で、岐阜へ行った今でもそう。良介だって健大高崎の先生に言わせれば、凄いバスケが上手と(笑)。

そんな器用さはあるけど、家に帰ってもバットを振っていたり、壁当てしていたかと言えばそうじゃない。う~ん、そうですね。佑真の場合、2年の夏を決めたときの、真和志との延長戦での譜久村くんから打った決勝打や、九州大会での熊本工戦で選抜を決めた一打。

良介も桐生第一から9回同点打。(この取材後の26日、春季関東大会の準々決勝伊勢崎清明から延長11回にサヨナラ本塁打をマーク)。でも、何故かと言われると。。。」

當山 「家で、そのような会話を交わしたこととかは?」

柴引「家では野球の話は殆どしませんね。ホント、どうやって育ったのだろう(笑)。」

砂川「親も気づかないことだったりとかね。両親の性格とか無意識のうちにあるのかな。夫婦喧嘩しているオヤジが耐えている姿をみて、心の内では負けないぞということを学んだとかね(一同大爆笑)。」

柴引「ウチも嫁さんが強いです(笑)。」

砂川「僕のところも(口論になったら)最終的には博多弁でまくられちゃう(笑)。」

柴引「ちょっと待ってください。いまの話をしていて、初めて気づきましたが、(息子たちの活躍の裏は)多分僕じゃなく、うちの嫁さんの存在ですね。彼女はですね、良く『あんた、何故あのときに打てなかったの?』とか、佑真を迎えたあとの車中で聞いていましたから。

小学校のときに息子がね、味方のエラーなどでふてくされたら、僕は何も言わないのだけど嫁は『あんたが怒りん坊さんになったら、チームはダメになるんじゃないの?』とか。いま思うと、嫁さんのそういった会話が彼らを強くしていったのかも知れません。」

砂川「僕も一緒。少年野球時代の話でね。帰りの車の中で、『修、なんであんたあのときセカンドに走ったの?』と。『ヒットエンドランだったんだよ。だからオレは走った。バッターが打たなかったんだよ』と修。つまりは、子供がお母さんにルールやそのときの状況を説明するんだよね。」

柴引「子供は僕らが野球をやっていたことを知っているから、そういうことを言ってこない。だけどお母さん方はそこまで詳しく知らないですよね。そこで言いやすい、吐き出しやすかったというのはあるでしょうね。砂川さんと同じく、車の中で言い合ってましたね。」

砂川「お母さんは知らなくても、息子だからどんなことでも聞いちゃう。そんなとき子供がね、お母さんに教えてあげられれば、野球ももっと理解してくる。

さっきの話の続きだと『あんたがもう少し早くスタートしていれば、空振りでもセーフになっていたんじゃないの?』と妻が言うと、『言われるとそうだな。エンドランだったけど、もう少しスタートを早く切っていれば、セーフになっていたな』と修が返すわけですよ。」

柴引「三振をした、エラーした悔しさは本人が一番分かる。だから僕ら野球を分かる側、気持ちを分かる側が、そこに触れると本人は辛いだろうなと思いそっとしておいてやろうと思う。でもそれが野球を余り知らないお母さんはズバっと聞く(笑)。でもそれが結果、説明して弁明みたいな形で吐き出すことも出来るし、こうだったんだよと聞いてもらえる。」

砂川「オレらが『修、あれはありえんだろ』とね。晩酌しながら、またぶり返されたら、子供は野球が嫌いになる。でも女房との会話が実は心のキャッチボールになっていた。お母さんの役割は大きいですよ。」

當山 「運を引き寄せることも大事でしたが、それこそが秘訣でしたか!試合の帰りの車の中で、後ろに座る息子さんとお母さんの会話が実は大事で。学童だからこそ、野球をバリバリやっていたお父さんが叱るのではなくて、息子さんの目線まで落として気持ちを察してあげてあえて何も言わないことが大事。お母さんとの会話のキャッチボールが、子供を強くしていくのですね。今日はお忙しいところ、大変貴重なお話、ありがとうございました。」

Profile

砂川 正美

1961年11月10日那覇市生まれ。
真和志高校、福岡工業大学、九州三菱自動車にてピッチャーとして活躍。平成10年頃から学童軟式野球に携わる。
浜川ジャイアンツで監督、SOLAでコーチとして子供たちの育成や地域に貢献してきた。
政輝、哲平、三太が大分県明豊高校で、修が沖縄尚学でそれぞれ甲子園の土を踏んだ。現在北谷町在住53歳。

Profile

柴引 宏之

1970年4月14日沖縄市生まれ。
美里高校、岡山三菱自動車や沖縄電力にて強打者として鳴らすが、腰を痛めて選手生活を断念。
平成13年頃から学童軟式野球に携わり、現在宮里スラッガーズの監督を務める。
次男佑真が沖縄尚学で、三男良介が群馬健大高崎で甲子園の土を踏む。現在沖縄市在住45歳。
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

砂川正美×柴引宏之:インタビュー トップに戻る