二宮尚寛、石川涼、砂川謙斗
二宮尚寛、石川涼、砂川謙斗
ゆかりの地 沖縄で夢を叶えた3人の興南戦士
2015-09-15
高校球児の憧れの地甲子園。最後の夏に聖地への出場が叶うのはたったの1校のみ。その切符を手に入れたくて、球児たちは練習に励むのだが現実は簡単にはいかない。
2010年、甲子園春夏連覇を果たした興南高校は国体でも負け知らず(雨天により大会途中中止)の上、新チームとなった秋季県大会でも優勝するなど、誰もが興南高校の黄金期を予想したが、年が明けた11年から14年終わりまでの3年間、甲子園どころかその他の大会でも興南高校が頂点を極めることはなかった。
しかし今年の春、春季県大会を制すると夏の選手権沖縄大会でも決勝へ進出。選抜出場の糸満との激闘の末、5年振りに聖地への帰還を果たした。
その中心メンバーの中に、県外から興南の門を叩いた選手が4人いたが今回はその内の3人、それぞれの親族が沖縄出身であるという共通点を持つ二宮尚寛君、石川涼君、砂川謙斗君に話しを伺った。
野球との出会い
伯父や父母が沖縄出身である3人ではありますが、違う地で育ったのですが、それぞれの故郷のお話と野球との出会いを聞かせてもらえますか?
二宮「自分の故郷は田舎町で、さらにほとんどが坂道で、自転車に乗るのも辛いところでしたね。でもおかげで足は自然と太くなっていきました(一同大爆笑)。小学校の一年生で幼馴染の先輩が野球に誘ってくれたのですが、三角ベースではあったのですが面白そうだなと始めたのがきっかけでした。」
学童の時のチーム名は?
二宮「ラビットです。」
石川「えっ?、それだけ?」
二宮「ラビットジュニアです。」
例えば熱海ラビットとかではなくて?
二宮「はい。熱海ラビットジュニアです。」
砂川「お前ね(笑)ちゃんと言えよな。」
主なポジションは?
二宮「ピッチャーでしたけど肩を壊してしまいました。」
石川「自分は福島でも結構北の方で、雪も降ったかと思えば盆地ですから夏は暑かったりと結構差があって、気候に関しては住みづらいというか大変。周りは都会でもなくでも自然は多くて、山に登ったり海に入ったりして遊んでいました。小学校の時はすぐにチームに入ったわけではなくて、お父さんと一緒に特訓と言いますか、鍛えてもらってて5年生でチームに入りましたが、そのおかげですぐにレギュラー(投手と外野手)でした。」
砂川「自分は大阪で、夏は暑かったですね。自分はサッカーとレスリングをずっとしてて、ともに6年生までやってました。親は野球をやらせるために体力作りということもあったのでしょうが、自分は逆にサッカーが好きになって、一流のサッカー選手を目指していました。三年生の頃から、野球をしないか?と勧められましたが否定し続けて。四年生の頃に無理やり体験に連れて行かれて、そのときは試合だったのですが人数がいないということもあって、ジャージのまま打席へ。そしたらたまたまランニングホームランが出て。野球って簡単じゃんって(苦笑)。それでも全くやるつもりなんて無かったのですが、ある日学校から帰ってきたら野球のユニフォームを親が用意してて。無理やりでした。」
それじゃサッカーと野球の二足のわらじを履く小学生だった!
砂川「そうですね。サッカーと野球の大会がかぶることもなかったのでそのまま。」
厳しかった中学の練習
人生初打席がホームラン!。なのに野球は好きになれなかった(笑)。面白いですね。では3人は、中学ではどのような野球少年であったのでしょうか?
二宮「入団して一ヶ月でまた肩を壊して。それから入院して復帰したのが二年生の夏。引退してはまたケガをして手術して。ただ走ってばかりで野球をやってないというのが正直なところです。足は太くなったのですけどね(笑)。」
石川「(小学校からの)リトルリーグが中学一年の夏まで大会があり、そのあと郡山中央ボーイズへ入団したのですが、腰の分離症というものに悩まされて半年ほど野球が出来ない時期がありましたが、そのときの監督さんが自分のことを良くみてくれて、力がついたなというのはありました。」
砂川「自分はオール松原ボーイズに入団。練習がメチャクチャきつくて、興南の練習でも比にならないくらいでした。」
そんなに?例えば思い出したくもない練習っていうと?
砂川「一日の練習が終わると二つの班に分かれて。一つは50m走で、これは自分のベストタイムを更新することが条件で、それを20本クリアしなければいけない。もう一つは千本スイング。これが30分間続いて交代する。これを毎日です。」
タイムを更新しないと25本、30本と走らなければならない!且つ千本!!二宮君、石川君の記憶に残ってる練習法ってどんなのがありましたか?
二宮「雪が降るところでもありましたので、走ってばかりでしたね。」
石川「僕は自分と同じくらいの体重の人を背負って走ることをしてました。それにしても謙斗の練習の、毎日ってのはヤバイですね(苦笑)。」
そんな凄い練習を中学からやっている。よく野球が嫌いにならなかったね。
砂川「好きでは無かったですね(笑)。」
石川「学童の頃に比べたら、なんで続けてるんだろうというのはありましたね(苦笑)。」
二宮「大嫌いでした(一同大爆笑)。」
興南高校での思い出
ほぼ野球が嫌いな状態(笑)。そんな3人が高校野球のステージを選択する道へと入っていく
二宮「僕は中学校のチームの監督さんから興南へ行ってみろと勧められて。嫌いなんだけどずっとやってきているし僕には野球しかない。それに親から離れてみるのも悪くないなと。」
石川「自分も地元から出てみたいなと思ってて。伯父や伯母が住んでいる沖縄には幼い頃から遊びにきてましたから。我喜屋さんという全国クラスの監督さんもいるし、沖縄でやるなら興南だなと。」
砂川「明徳義塾とか桐生第一とかの高校から誘いを受けてましたが、父が興南出身ですしチームの監督さんも興南を勧めてて。我喜屋監督の著書が家にあって、それを手に取って読んでみると野球だけでなく私生活も鍛えると書かれてあったので興南へ来ました。」
今だから言える馴染めなかったなぁというのはありましたか?
二宮「朝の散歩とか、自分が散らかしていないゴミ拾いなど、どうしてやらなければいけないのかというのは始めの頃はありました(苦笑)。」
石川「寮生ですから時間もキッチリ管理されて。携帯電話も回収されて。縛られてるなぁと思ってはいたかなぁ(苦笑)。」
砂川「たくさんある決まり事の意味が僕ら全員、一年生のときには分からなくて。散歩もスピーチも今となっては分かるのですが、入ったころはやはりイヤイヤでした。それがあるから結果にも繋がらなかった。」
そんなスタートを切った3人でしたが、今では甲子園ベスト8を成し遂げた立派な高校生。君たちの中での、「あのときから僕は変わったなぁ」っていう分岐点があれば、それはどんな場面でしたか?
二宮「二年生の冬トレですかね。肩をケガしてて守りが出来なかったぶん、たくさんバットを振ってきました。」
砂川「昨年の秋の県大会が終わって足をケガしてしまって。松葉杖しながらの生活をしてました。それでスタンドからみんなの練習を見ていたら、外から見るからこそ分かるもの、見て学ぶものに気付いて。その間、メモ帳に書き溜めてて。それが後々役に立ちました。」
二宮「自分もスタンドから見ている時期がありましたよ。ボール踏んでしまって。」
石川「意味の無いケガだ(笑)。」
二宮「ジャンプしたらボール踏んで。。。」
ジャンプ?
二宮「練習中にネット上にあるボールを取ろうとジャンプしたら、別のボールが下にあったのでそれで足をやっちゃって。人生終わったと思いました(一同大爆笑)。」
それで病院へ。じん帯をやっちゃったら歩くのも大変だったでしょ。
二宮「でも骨はあるので。」
骨があればって話じゃないでしょう(一同大爆笑)。
石川「いつ変わったかは分からないのですが、毎日厳しい生活をしていたら自然と我慢強くなりますし、入学した頃の自分と比べたら一皮も二皮もむけた感じ。大学へ向けても心配が無いと言えるほど、興南には成長させてもらいました。」
さすが石川君。綺麗に締めてくれました。ありがとうございます(笑)。ではそれぞれの最後の夏の思い出を語ってもらいましょうか。
砂川「年が明けた解禁日に興南グラウンドで対戦した仙台北上との試合で、高校野球初のホームラン。僕はホームランバッターではないのですが、休んでた間の筋トレが活きたのかも知れませんけど、あれで何かを掴んだという感覚がつきました。」
石川「僕は春の県大会でのコザ戦。内間からレフト前の先制タイムリーを打ったときです。新人中央でも対戦したけどとにかく速い。あの試合に勝てたのは大きかったです。」
そのレギュラー2人が活躍してる陰でバットを振り続けていた二宮君にも光が射しました。選手権沖縄大会の決勝戦。糸満との試合に代打で登場して派手な同点打!
二宮「それまで全く打席に立ってなかったのですけど、ボールが狙っているところに来てくれて。でも、たまたまです(笑)。」
石川「いや、でもバッティングは凄い。入学から喜納よりもパワーがあって。飛距離もナンバーワンでしたから。」
砂川「打球、メチャクチャ速いですよ。」
二宮「そこまで言われたら自分、メジャー目指した方が良いですかね(一同大爆笑)。」
甲子園での思い出
砂川「中学校のときに、タイガースカップで甲子園を経験しましたが、観客もまばらで感動とは程遠くて。でも高校ではやはり目指していた場所ということで、感じるものは大きかったです。」
石川「野球やってきて甲子園をずっと夢見てきて。でも球場自体は思ったより小さく見えました。」
砂川「普通の球場とは違って、外野から見ると打者と観客が一つに重なるので、打った瞬間の判断の難しさも感じましたね。」
初戦の石見智翠館戦では、雅也君があそこで4点を取られてピンチになった
石川「雅也は初めから調子が良くなかったので。ひっくり返されてもこの点差なら大丈夫かなと。」
砂川「リードされてもベンチの中ではみんなに焦りの色はなくて。逆転出来ると強く信じてたのが良かったです。」
二宮「僕は代打で出て。2回戦も代打で出たけど四球を選んで。そのまま守備につくことになっちゃって。守ってて『ホントに(打球)飛んでくるな!』と思ってました。」
砂川「大会で守備につくのは初めてだろ!」
二宮「練習なんてやってないので(苦笑)。」
糸満戦でも代打でお役御免!って感じだったもんね
二宮「いつもは塁に出ると、(交代)というジェスチャーが出るのですが、(そのまま)というジェスチャーが出てビックリして(一同大爆笑)。もちろん牽制とか来るじゃないですか。戻ってもギリギリで。ベンチ見ると怒ってるよなぁと(苦笑)。守りでは砂川君がカバーしてくれると思っていたので(笑)。」
砂川「ライトフライで、あんなに他の人の打球のために、全力で走ってカバーしたのは初めてでした。雰囲気的に危なかった(笑)。」
二宮「緊張でグローブの中は汗だらけでした。あのフライをもし落としていたら、僕野球を辞めてます。でも神様見ているのですね。ゴミ拾い頑張ったから(笑)。」
石川「3回戦で僕はスタメンを外されて。楽人もバッティングが好調だったし。でも出番は来るぞと思っていたので準備はしっかりしてました。比屋根もスタート最高で、粘り強くしたら勝てると信じて戦ってました。僕個人では打撃で結果を残すことは出来なかったけど、凄く楽しかった。そしたらオコエがバーンと。僕の頭の上を越えていって。苦笑いするしかないですよね。」
雅也も一輝も納得出来るボールを、あの場面でホームランにしちゃうオコエが一枚上だったってことですよね。みなさんの頑張りはファンを十分に満足させてくれましたよ。では3人にとって高校野球とはどんなものだったでしょう
二宮「仲間の大切さに気付きました。みんな熱血で、キツイ練習も一人では絶対乗り越えられないけど、興南高校の仲間がいたから、みんなで克服して甲子園出場出来たと思います。」
石川「人間として成長出来た場所。子供でわがままで自由に過ごしてた未熟な自分が、興南高校で生活していくことによって、大人に近づけましたね。」
砂川「これから先は長いけど、それでももう味わえないだろうなと思うほど色々あった3年間でした。興南高校での、この3年間は宝物です。」
静岡県、福島県、大阪府と、それぞれ違う地で過ごしてきた3人は、友や家族にひとときの別れを告げ、集大成となる高校野球の舞台を沖縄に求めた。
だが、沖縄出身の血筋が引き寄せた、偶然に見える必然だったのかも知れない。そのひとつの証拠が、興南高校5年振りの甲子園出場であったのではないだろうか。
しかも3人ともにベンチ入りを果たしての、堂々の全国ベスト8なのだ。この先、3人が同じ道(進路)を選ぶことはないだろうが、それぞれの胸に焼きついた「興南高校での3年間」は、どんなものにも代え難い光となって彼らの前途を照らし続ける。
人生のスコアボード(我喜屋優監督)は、まだ始まったばかりなのだ(當山)。