上原 健太 (明治大学硬式野球部)
上原 健太 (明治大学硬式野球部)
2015-03-14
最優秀防御率に輝く
昨年の東京六大学秋季リーグで2季振り37度目となるリーグ優勝を果たした明治大学。計7試合に登板した上原は、先の4試合で2番手や抑えなどに起用されていたが、「2015年のエースとして柱になって欲しい」と語った善波達也監督の期待も込められていたのだろう。10月20日の慶応大学戦から先発としてマウンドに上がると、残り2試合でもスターターを務めた。26日の立教大学戦では7回まで1失点に抑えるも8回頭で同点にされ降板。しかしその悔しさを晴らすかのように、2日後の同大戦では7回途中まで投げて許したヒットは僅か1本。4三振を奪う無失点と好投し、最優秀防御率(0.96)を獲得し優勝に貢献した。それまで背番号1であったが今年、上原に提示された背番号は11。川上憲伸、岩田慎司(以上中日ドラゴンズ)や野村祐輔(広島カープ)らそうそうたる人物が代々受け継いできたエースナンバーだ。
繊細で頭脳的なピッチング
「今までは抑えやビハインドの場面での登板だったけど、今年は先発の柱として、この試合任せたぞと言えるような存在になってほしい」。明治のエースナンバーを背負えるだけの逸材ではあると太鼓判を押した善波監督。4月のリーグ春季開幕までに28試合のオープン戦を組むなど、実戦を意識した日程の中、その第1戦目である沖縄電力との試合で先発に指名したのはやはり上原だった。140キロを何度かマークするなど、6回を終えてヒットを2本のみに抑え無失点と好投を続けた上原だったが7回、照屋吐夢、大城亮、田場亮平に続けざまに打たれ、投手人生で記憶にない(上原)という3連打を浴びるなど突如乱れ、3失点を喫して登板を終えた。
オープン戦(3月3日:セルラースタジアム那覇)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
沖縄電力 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | 6 |
明治大学 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 |
上原 「緩急をつけたピッチングや、取り組んでいるカーブなどがどう通用するかという課題を持った試合でしたが、もっともっと精度を上げていかないといけないなと思いました。」
190センチの長身から、周りはどうしても剛球投手のイメージを持ってしまうが、上原の真骨頂は別のところにある。下級生の頃からバッテリーを組み、今年から主将としてチームを牽引する坂本選手の上原評だ。
坂本「身長も高く、身体能力もある。見ている人は大きいなぁ、球が速いのだろうなぁと思うでしょうが、実は繊細なピッチャー」
力強さも持ちつつ、変化球でストライクが取れる、色んな技術を駆使してバッターを抑えることが出来るのが上原だと、女房役の坂本は言う。また上原自身も空振りが獲りたい場面で獲れる、ゴロを打たせたい場面で打たせるなど、打者を操るような、自分が思い描いたような頭脳的ピッチングをすることを目標としていると語った。また、最上級生として望む1年についても、「責任感や周りからのプレッシャーなどもあるが、それに負けないように自分らしく歩む」と語ってくれた。中学卒業と同時に選んだ広陵高校、そして明治大学への進学など、当時の気持ちを包み隠さず語ってくれた上原と、天願フェニックス時代以来、久々の顔合わせとなった筆者との一問一答を紹介しよう。
健太が野球を始めたのはいつ?
上原 「父親にも、野球やらんのか?と言われてて。小学校3年生の頃に少しかじったのですが、チームに正式に、というのは4年生になってからですね。国場翼(具志川、第一工業大学)らもいましたからね」
当時の天願フェニックスのエースは翼。外野手起用が多かった健太がピッチャーを目指そうと思ったのはいつ?
上原 「中学に入ってからは、ピッチャーへの意識ウンヌンよりも、ただ漠然と野球部にいる自分がいて。このままでは自分に負けて埋もれてしまうという、自分への危機感からうるまボーイズへ入部しました。それまでの軟式からまずは硬式に慣れようということで外野手から始めて。2年生になって、指導者から本格的にピッチャーをやっていこうか!と。それから始まった投手人生ですね」
ボーイズでの成績、思い出はありますか?
上原 「実はケガだとかインフルエンザ、修学旅行などとかちあって。例えば1回戦は投げたのだけど、準決勝以降の試合、といった大事な試合では全く投げていないのです。ボーイズという環境が自分のレベルを上げていったのは間違いないのですが、自分の中の思い出はそういう(苦い)ことばかりでした。」
それから中学3年の夏を終えるという流れになっていく中で、広陵高校に決めていった過程というのは?
上原 「まず、広陵高校は全く頭になくて。真栄平大輝さんや今日対戦した山川大輔さん(2人ともうるまボーイズ出身)らが興南高校へ進学していましたし、雰囲気的に僕も興南かなという感じではあったのです。だけど、中学に進学してからの自分は、自分でも何故か分からないけど、県外に出たいという思いがあったのです。8月頃に進路はどうしようか、ということになり、色々インターネットで調べていくと、オープンスクールがあるらしいぞと。それで父親と話をしたらそれじゃ見に行ってみるか?と。甲子園に出ている強豪校ってどんな感じなのだろうという好奇心から、でしたね。」
進路が決まった広陵高校。そこでの思い出話などあれば
上原 「沖縄から来たのは僕が初めてらしく、珍しかったのでしょうね。なんかそんな感じで見られたなぁという思い出があります。自分が最初で最後じゃないですかね(苦笑)。みんなは甲子園メンバー入り、というかも知れないけど僕は、ずっとバッティングピッチャーをしていたという記憶が凄く残ってて。あとは、意識が飛ぶまで走ったとか。楽しい思い出よりも苦しいことの方が多かったです。」
高校野球を卒業したとき、一瞬でもプロ志望届を出そうかな、という思いは無かった?
上原 「そういう話(スカウト)はあったみたいですけど、当時の自分は全くプロということは頭に無かった。行きたい気持ちはあったけど、行ってやれる自身がまだ無かった。そこは迷うことなく、(中井監督に)進学させて下さいと。」
そういう思いが明治大学へと進んでいった
上原 「あるとき監督の娘さんが来て、大学の進路くらい自分たちで選ばせてやりんしゃい!と。そこで健太はどこに行きたい?という話になって、僕は東京に出たいですと。そういったいきさつの中で、進路先が明治大学になっていったのですけど、広陵の先輩でもある野村祐輔さんが活躍されている大学ということもあり、こちらに決まったのです」
思いのあるプロ球団はありますか?
上原 「とくにここ、という球団はありませんが。九州ということで親近感が沸くのはソフトバンク。高校の先輩たちということを考えると広島かなという思いはあります。」
健太にとって野球とは、明治大学野球部とはどのような存在ですか?
上原 「今まで野球ばかりやってきて、でもそれを通して違う部分で人間関係だったり、こうやって色んな、たくさんの人と出会えさせてくれたのが野球。自分を人として成長させてくれたのが野球。明治大学野球部は明るくて元気があって自分に本当に合っていて、野球の楽しさを教えてくれた場所ですね。」
「六大学という素晴らしい場所で野球をさせてもらい、11番を背負わせてもらっている幸せを噛みしめつつ、もっともっと頑張って、県民のみなさまから応援をいただけるような選手になっていきます」と締めてくれた上原。どちらかというと、中学、高校とケガやその他で納得のいかない野球人生を送ってきた。また、秋のリーグで防御率1位という成績を残したものの、大学通算勝利数もまだ二桁に届いていないのにドラフト1位確実といったような外野の声に、正直に戸惑いを浮かべる上原。この最後の1年間は春5勝、秋5勝するような実績を残して堂々とプロへ行きたい大型サウスポーに、島から声援を送ろう。チバリヨー!健太!