仲松伸一郎 / コーチインタビュー~三菱重工長崎・仲松伸一郎(那覇商)
仲松伸一郎
コーチインタビュー~三菱重工長崎・仲松伸一郎(那覇商)
2015-04-15
那覇商・仲松誕生
「上山中学校で地区大会準優勝して県大会へ出場、そして高校野球への道を模索していく中で那覇商業高校(以下那覇商)を選ぶわけですが」
仲松 「最初はやっぱり名門の沖縄水産への進学を検討していました。僕が中学2年生のときに沖縄県で秋の九州大会があって、そのときに那覇商が、伊佐真琴さんたちのときに準優勝したのですね。」
1993年の九州大会で決勝戦こそ鹿児島実に敗れたものの堂々の準優勝を果たした那覇商。家から近所だったこともあり、やるなら移動距離を考えず練習時間をたっぷり取れるということも野球小僧の仲松氏には魅力だった。そして神山昂先生から一緒にやらないかという声を頂き、那覇商の門を叩いたのだった。 入部したての仲松氏だったが、練習試合などで起用されるとヒットを重ねるばかりではなく、ホームランも放つなど猛アピール。その甲斐あって、1年生ながら夏の選手権大会でベンチ入りを果たす。一回戦、那覇商は浦添商業高校(以下浦添商)と9回を終えて同点となり延長へともつれ込む。勝ち越されたその裏、ツーアウトとなり後がなくなった状況下で神山監督から仲松氏に「(打席の選手が)出たら、次行くぞ。」と言われネクストサークルへ。だが、打席に立つことは叶わずチームは敗退した。新チームへと移行した那覇商は、新人地区大会を突破して県中央大会へとコマを進めた。
仲松氏「 興南の比嘉さんは中学校でも県大会を制したほどのピッチャーでしたが、あの試合は自分たちのミスが多くて自滅した試合でもありました。」
「新チームにありがちな、まだ上手く噛み合ってないなと」
仲松氏「 そんな感じでしたね。」
5回表に8点を失い11対1のコールド負け。ボロ負けではあったが、自分たちのミスから生じた悪い流れを断ち切れなかったということで、力の差を感じての敗退ではなかった。その証拠に秋の県大会で那覇商はベスト4進出を果たしている。そこで活躍したのが5番ファーストの仲松氏だった。初戦で3打数2安打1打点をマークすると、準々決勝の読谷高校戦では3安打3打点。全5試合の成績は19打数9安打6打点になっていた。まだ1年生だったにも関わらず、だ。
仲松氏「 準決勝、沖縄水産の糸数さんとの対戦時、伸びのあるストレートで、率直に速いと感じました。たまたまヒットを放つことが出来ましたが、自分が思っていたポイントより少し差し込まれていました。」
このとき3回戦で対戦した前原高校の投手は金城敦氏。準決勝で敗れた沖縄水産は、糸数光正投手を中心として秋の九州大会でベスト4入りし選抜出場。2回戦で敗れたものの、準優勝した智辯和歌山高校に1点差であった。その前原・金城と沖縄水産・糸数は翌年、最後の夏の決勝で投げ合うこととなる。そんな好投手と互角の戦いをしてきた仲松氏にとって、一年生中央大会は「やっぱり打たないといけない」通過点でもあった。チームはベスト8止まりだったが、仲松氏自身は8打数4安打1本塁打と確かな手応えを残すと春の大会でも2試合で4安打を放つ。そして、おそらく当時の野球ファンの脳裏に、一番記憶に残ったであろう中部商業高校(以下中部商)との、一進一退の攻防を繰り広げた2年の夏へと向かう。
仲松氏「 あの試合は、エースの有銘さんの体調が優れず、前日僕に、明日、お前が3本くらい打ってくれたら勝つよと言われていたのです。」
10回裏、サヨナラの走者を出してしまう那覇商だったが「粘りっこく守りきり11回へ」(仲松氏)と突入すると、仲松氏が先頭打者として打席に立った。
仲松氏「 絶対打ってやろうと。フルカウントから平安名投手が投じたスライダーに上手く身体が反応することが出来ました。」
見逃さずフルスイングした打球は、レフトのフェンスを越えていった。優勝を目論んでいた那覇商と仲松氏にとって、敗れる可能性のある嫌なチームのひとつが中部商でもあったが、第1打席に三塁打を放った仲松氏は、5回には勝ち越しアーチと大暴れ。4打数3安打(2本塁打1三塁打)と、チームを救う大活躍だった。そして迎えた準決勝の前原戦。那覇商は1回裏に2点を先制するも3回表に逆転を許し3対5のビハインドのまま9回裏へ。打席には仲松氏がいた。
仲松氏「 ツーアウト満塁でしたね。絶対満塁ホームランで明日の新聞に載ってやろうと。」
2球ファールになって追い込まれたが、仲松氏はストレートに的を張る。打てるものなら打ってみろと金城投手も自慢のストレートを投げ込んできた。息を呑む瞬間、バットは白球を確かに捉えていた。だが、マウンドに当たり跳ねたボールは無常にもグラブの中へと収まる。勝利を収めた前原は、沖縄水産を決勝で下し23年ぶり2度目の聖地の土を踏んだのだった。
一年前と違い、自分たちの代となった新人大会。気合十分の仲松氏だったが、地区予選の試合中、一塁走者として二塁へ滑り込む際に相手の送球を手に受けてしまい戦線離脱を余儀なくされる。
仲松氏「 折れてはいなかったけど、試合に出られる状態じゃなくて。でもそういう(自分がいない)ときに限って、県中央大会で決勝戦まで行くのだから(苦笑)。」
決勝の沖縄水産戦では9回裏に代打で登場するも今度は頭に死球を食らってしまう。だが何事もなく、翌月の秋季県大会では初戦から出場。宜野座高校戦では3安打をマークするなど活躍したが、良きライバルが目の前に立ちはだかった。読谷高校のエースで現在も沖縄電力でコーチとして選手を指導する知花訓がその人だ。
仲松氏「 全くダメでしたね。アイツにはずっと抑えられて。中学校の県大会でもやられましたから。」
練習試合では打てていたが、本番では完璧に抑え込まれた。球種やコース別の打者の得意を探るべく打たせ、公式戦ではその逆をついて打ち取るという頭脳的なピッチングを披露していたのが知花だった。この敗戦で選抜への道が絶たれた仲松氏は冬、下半身を鍛えバットを振り込んでいった。翌年の春、初戦の浦添高校戦でホームランを含む3安打3打点と好スタートを切った那覇商と仲松氏の前に再び現れたのが読谷・知花だった。
仲松氏「 0対5から僕らが追いついた試合。でもひとつ下の子にやられたのです。」
5回までゼロに抑えられていた那覇商だったが「知花対策をしてきた」(仲松)成果が中盤から花開き、7回、ついに同点に追いつきゲームの流れを那覇商が手中にしたかに見えた。だが知花の女房役であった元選手に満塁から走者一掃となるライト線へのタイムリーを浴びて敗れてしまった。
仲松氏「 最後の夏しかなくなって。右の知花、左の上間(浦添商)。こいつらを打たないと甲子園はないぞと。」
1回戦から3回戦まで全てコールド勝ちを収めた那覇商と選抜出場の浦添商が対戦。希に見る乱打戦は8回裏、それまで投げていた上間豊から代わった渡久山に、那覇商打線が襲い掛かり3点を奪い7対5と逆転に成功する。
仲松氏「 9回表一死までリードしていましたが、下地康之に3ランを打たれてしまいました。」
それまで好投していた新垣投手のスライダーを康(下地)に捉えられてしまったと振り返った仲松氏。その夏、浦添商は県大会で優勝しただけでなく、全国高校野球選手権大会でベスト4に入る活躍を見せた。そんなライバルたちとの戦いにくれた高校野球を終えた仲松氏の元には、10球団ものスカウトがやって来ていたが、神山先生との話の中で三菱重工長崎への進路を決めた。
仲松氏「 高校とは違いましたね。打球の飛距離は誰よりも飛ばせるという自身はありましたが、確実性という面での技術が足りなかった。社会人の投手は球のキレも凄く、それを打つために必要な技術練習についていくだけの体力面でも足りなさを感じましたね。」
近年こそ低迷が続いている三菱重工長崎だが、仲松氏が入部した翌年の1999年に都市対抗野球で2度目の準優勝、2001年には杉内俊哉(巨人)を擁して社会人野球日本選手権大会で優勝するなど全国区の強豪として鳴らしていた。
仲松氏「 そんなところでレギュラーを奪うには、野手であれば打って走って守れなければならない。レベルの違いを少しでも埋めるために、筋力トレーニングや食事の栄養管理等、肉体改造を行い、他の選手よりも少しでも多く練習するように取り組みました。打つ方では必死で食らいついていたが、守備や走塁での差が大きくて試合では殆ど出ることなく26歳で退部することとなりました。」
社会人の厳しさを身を持って知った仲松氏だったが昨年11月、コーチとしての白羽の矢が同氏を迎える。表舞台の選手たちを支える、影の柱として挑む名門復活への思いとは。
仲松氏「 全国大会に長らく出ていない。だけどやる以上は、出場が目標になるのではなく全国制覇を掲げないといけない。そのためには食事だったりトレーニングだったりというところから拘らないと。そうやって作ってきた身体に、この春季沖縄キャンプでさらなる技術の向上をはかっていく。若い選手が多く、実績が伴えばプロに行ける可能性もある選手も多くいるので、チームとしての目標と選手たちをプロへ行かせてあげられる環境作りをしていくのが僕らの仕事です。」
選手と一番年齢が近いコーチとして、「野球だけじゃダメ。社会人としてしっかりしなきゃな。」など、良き兄貴分的な役割も求められる仲松氏。野球を通して会社をはじめ、恩師の方々への恩返しが出来ればいいと静かに、だが熱く締めてくれた。