昭和60年、沖縄水産2度目の甲子園出場時のエース

安里卓さん

2015-02-14

昭和60年、沖縄水産は前年に続き2度目の夏の甲子園出場を果す。前年の初出場のときは、栽監督は謹慎中。ナインは栽監督といっしょに甲子園へ行くぞと一丸になり、当時県内最大のライバルだった興南を県大会決勝で破り甲子園出場を決めた。甲子園では3回戦で鹿児島商工に逆転サヨナラ負け。安里氏の胸にも苦い思い出として残る。

鹿児島商工に9回逆転サヨナラ負け

昭和60年の夏の甲子園、沖縄水産の逆転サヨナラ負けは後も語り継がれる試合となった。1回戦で函館有斗を11対1、2回戦で旭川竜谷を3対1と退けた沖縄水産は3回戦で鹿児島商工と対戦した。この試合、安里氏は7回途中で降板。あとを継いだ1年生投手上原晃(元中日)が9回裏に同点され、なお一死満塁。そして次打者に投じた初球がワンバンドしサヨナラ暴投となった。

「鹿商工の試合がああじゃなければ良かったんですけど。僕の甲子園の思い出と言ったら、県民の皆さん、同級生、チームメイトに対し申し訳ないしかないです、それが強いですね」。1回戦、2回戦ともに1失点に抑える好投をみせた安里氏だったが、この試合は制球が乱れる悪い癖が出てしまった。沖縄水産は2回表に4点を先制し勝ちムードになるが、安里氏の調子が芳しくなかった。「ボロ負けだったら、安里こいつはダメだって終わるのですけど、勝てる試合をつぶしているので・・・」。制球の定まらない安里氏は5対3と沖水が2点リードの7回裏、二つのフォアボールを出して、1年生の上原にマウンドを譲った。「勝っていての散々のピッチング。最後の最後にあんなふがいないピッチングし、チームが1年生に頼らないといけない状況にしていまった。晃(上原)にとっても苦い思い出と思うのですが、僕にとっても情けない試合ですね。最後の最後にああいう終わり方をしたくなかったのですけど」。一、二戦で好投するも、高校野球最後の甲子園のマウンドは安里氏にとって苦い思い出の場所となった。

命綱の変化球が曲がらないまま、一回戦、二回戦を好投。

「僕としてはフォアボールも4個くらい出しているんですけど、まだ良かったのかな。のらりくらりと打たせて取るピッチングができて」と振り返る安里氏。しかし甲子園では、安里氏の武器であるカーブが曲がらなくなったという。「なぜだか分からないのですが、バランスが崩してしまったのか、ボールが抜け始め曲がらなくなったんですよ」。アウトコース低めへのカーブが生命線、それが曲がらないまま真ん中へ。「(捕手の)宜保は儀保がカーブのサインはほとんど出さなかったんじゃないですかね」。しかし、安里氏は違う武器があった。「僕の場合、指がちょっと変形していて人差し指にボールがかからないんです。なので真っ直ぐがナチュラルでスライドしたりシンカーしたりして、ムービングボールじゃないですけど動くんですよ。それがたまたま良かったんだと思います(笑い)」。そして野手に感謝した。「野手が良かったですね。僕の中では、ノーアウト一塁でも、ワンアウト一塁でもゲッツーとればいいって感覚でしたから。僕は、バッターを抑えようじゃなくて、打たせてとろうというピッチャー。内野を信頼していたので、打たせてゲッツーは多かったですね。ほとんどエラーすることはなかったと思います。」

チーム一丸となり打倒興南を目標に

当時は沖縄水産、興南の二強時代と称された時期。夏の県予選決勝も3年連続で興南との顔あわせとなった。

「絶対に総合力からすれば興南が上だったと思いますけど、絶対に負けられないっていう気持ちがありましたね」。栽監督からは毎日ようにミーティングで「こんなことしていてお前たちは興南に勝てるわけないだろ」と言われていたという。それでも「やっぱり栽先生に付いていけばどうにかなるんじゃないかという思いはありましたね。僕の中には」と安里氏。チームとしても、ミスを最小限に抑えるための練習を細かく相当やったという。「栽先生は、自信を持たせるために、あれだけ練習をさせたんじゃないですかね。あれだけ練習したのだから負けるはずがない、負けられないという思いが絶対に出るじゃないですか。それを植え付けるためにあれだけ追い込んでみっちりさせたのかと、今考えるとそう思います」。

 県大会決勝の興南戦の前日、安里氏が準決勝に勝って寮に戻るとベッドの上に2枚のメッセージが書かれた紙が置かれていた。同級生や後輩たち数人の部員が書いた『明日の決勝戦は頑張って下さい』という内容の文章だった。「水産の暴れん坊連中が、こんなのを書いて、頑張ろうっていうのをやること自体が僕は信じられなくて。びっくりして読んで『よっし』って思い、絶対に負けられない気持ちになりましたね」。それまで寮で一緒に暮らしてきて、打倒興南という一つの目標に向かって頑張ってきた仲間がくれたメッセージは大きな力となった。夏の大会にベンチ入りできなかった同級生のメンバーは、裏方にまわって練習を手伝ってくれた。

「確かに相手が上だというのは分かっていましたが、なおさら負けるわけにはいかないという気持ちでした」 決勝は点の取り合いを制して7対5で勝利した。練習試合さえ組まないというライバル心むきだしの両者だったが、決勝終了後に駐車場に向かっているときに、興南のメンバーが何名かが歩み寄ってきて『頑張ってきてな』と声をかけてきたという。「逆に僕が負けてから行けたかなと考えると、ライバルなんだけど、やっぱり凄いと思いましたね」。

肩の故障とつき合った3年間

中学校の頃に肩を痛めた安里氏は、高校入学後も故障つづきでほとんど投げられなかったという。新チームの秋の県大会もエースナンバーをもらいながらベンチを暖めていた。しかし、栽監督が謹慎から復帰し野球部に戻ってきてからは、エースとしてマウンドに立ちたいという気持ちで肩の痛みを隠して投球するようになった。「僕も最後だったので投げたいっていうのもあるじゃないですか。ずっとベンチから見ていて投げることもできずにいたので、栽先生が復帰してからは、騙し騙しやっていましたね」。全力で腕を振ったときに痛みが走るときと走らないときがあったといい、毎朝起きると肩の痛みを確認するのが習慣となった。痛みが走ったときは、ずっと違和感があったが、それを抱えながら練習でも投げていたという。シート打撃、フリーバッティング、ブルペン。「ストライクが入らないから体で覚えさせるということだった思います。ずっと投げていました。栽先生がいるときにはコーナーにと投げるんですけど、痛いときには間をおいたりして、わざと変化球を試してみたりしていました」。甲子園でも肩の痛みを感じながらの投球だった。「ランナーが出るじゃないですか。普通はサインが出るとすぐ投げますよね。でも1球投げて痛みが走ると痛みが引かないので、わざと1回牽制をするわけですね。速い牽制でなく、走るかなと様子見で牽制して。そして次は、プレートだけはずすんですよ、投げずに。こんなんので騙し騙ししていたんですね」。しかしその行為が審判から指摘を受ける。「甲子園の審判から、『もう早く投げなさい、間合いが長いので短くしなさい』と言われても、すみません分かりましたって言って、また同じようにやっていました。なるべく肩を騙しながらと」。

安里氏は、その肩痛もあり自らのことを『投げさせてみないと分からないピッチャー』だったという。栽監督には怒られたことしか覚えていない。「先生も不安ですねよ。なんでこんなのしかいないんだろうって(笑い)。練習試合で投げさせてみてもフォアボールを連発するわ、ランナーを溜めては打たれるわってなると、こいつに任せて大丈夫かなっていうのがあるわけですよ。お前、何であっちに投げれないのかとか言われて、肩が痛いですとも言えず。もうしょっちゅう怒られていました」。負けるときは、だいたい自らのフォアボールでランナーためてしまって自滅するパターンだったという。春の九州大会の東海大第五との試合では、安里氏の大乱調で試合が長引き、日没コールドで敗れたと苦笑いした。

新入生、上原晃

安里氏が3年生の春、1年生に上原晃(元中日)が入学してきた。「普天間から凄いのが来るよって栽先生から言われて、お前なんかもういらんよって言われて続けていました」。上原が入学する前から栽監督にハッパをかけられていた安里氏だったが、入部初日にその凄さを目の当たりにした。「初日に晃と組まされたんですよ。走ってストレッチするじゃないですか。開脚して地面に胸がペタっとつくほど体が柔らかいし、走らせたら100mは11秒ぐらいで走るし、こいつ何者かと。そう思いながらキャッチボール始めて、球を取ったときに『わぁー』と思いました。こいつにはかなわないと思いましたね。この一球で、わぁーこいつとんでもないと」。エースの座が危ういと感じた安里氏は、変化球の習得に取り組む。「もうその日からですね。真っ直ぐは絶対かなわないので変化球を覚えるしかないと。晃は真っ直ぐだけでカーブが投げられなかったので。だからカーブの練習をしたんですよ。変化球も上から投げたり横から投げたりってやっていましたね。別に三振とるボールじゃなくて、バッターの間とかタイミングをはずすイメージで。上からゆるく投げてストライクをとるカーブとか、横から投げてストライクからボールになるものを覚えたんです。他のピッチャーにもそうですけど、これを自分の武器にしないと晃に勝てないと思ったんですよ。1番をもらえたのはカーブを投げきれたからだと思うんですよ。カーブでカウントもとれるしカーブで打たせてゲッツーもとれたので」。ストレートだけでは上原には勝てないと思った安里氏は、カーブの精度を磨き投球の幅を広げることで、エースの座を譲らなかった。

野球部の仲間たち

「甲子園で負けたときは自分が悪かったんですが、それを誰も言わなかったですね、誰も僕を責めずにいました。チームメイトに恵まれて良かったなと思います」。チーム内のレギュラー争いも激しかったが、チームワークが良かったという。「何名かウーマクーはいましたけど、チームとしてのみんな相手をけなすとかは一切なかったですね」。そしてハートの熱い仲間たちだった。安里氏は決勝の試合前の出来事が忘れられない。「スクールウォーズって番組があったんじゃないですか。その中で『信は力なり』とやっていたんですよ。それを観ていたと思うんですが、僕ら試合が始まる前に沖縄市営球場の屋内ブルペンで皆で円陣を組んで輪になって手をつないでやりましたよ。今から勝つぞと。ウーマクー連中でありますけどハートはありましたね。言葉には出さなかったけど」。そして、自分のやるべきことは、しっかりやるメンバーだった。「練習を終わたった後に、自分たちでノックして練習するとかティー打撃をやるとか走るとか、みんな何かしらレギュラーとるためにそれぞれがやっていました」。チームメイトでもありライバルでもあった野球部の仲間たち。大会前に練習を補助してくれたベンチ入りできなかった部員たち、決勝の前にメッセージをくれた部員たち、安里氏はチームメイトに恵まれて良かったと振り返った。

息子に自慢?。甲子園の外野フェンスに触れたと

甲子園の土を踏んでの感慨がそれほどなかったいう安里氏。「雨が降って大会前の甲子園練習ができなくて室内練習場だったんですよ。甲子園練習をやってたら少しは違っていたかもしれないですが、試合でマウンドに上がりプレイボールしてからは、バッターに集中しているので『ああ甲子園にやっときた』っていうのはなかったですね」。ただ、1回戦で外野の守備についたときは球場の大きさを感じたという。「一回戦で、上原が9回から投げて、僕ライトにまわされたんですよ。守備につきながら球場を見渡すとやっぱり大きくて。ラッキゾーンもあったじゃないですか。観客も凄かったですし、バックスクリーンとかも。僕、ライトから見ましたからね。そしたら、カッキーンて音が聞こえて、見たとたんにボール前に来ているんですよ。あっと思って前にいったら合わずにトンネルしたんですね。これがフェンスまでころがっていって。息子には、今はない甲子園のラッキーゾーンのフェンスは一応触ったからなと話しました(笑)」。

最後に自身の高校野球を振り返ってもらった。「甲子園に出れたことは嬉しかったですが、それまでの過程が大事だったと思いますね、水産に行ってきつい練習をして、これを乗り越えられたっていうのは、すごい糧になっていますよね、今、人生において。あれを乗り越えられんだから何でもないやっていうのはありますね。」

昭和60年(1985年)・第67回夏の甲子園

1回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
沖縄水産1 0 1 1 2 3 0 2 1 11
函館有斗0 0 0 0 0 1 0 0 0 1
(沖) 安里、上原晃 - 宜保
(函) 阿部研、盛田幸、息才 - 佐藤正
本塁打 : 上原忠(沖)
三塁打 : 知念、安里(沖、川原(函)
ニ塁打 : 宜保(沖)

2回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
旭川竜谷0 0 0 0 1 0 0 0 0 1
沖縄水産0 0 0 2 0 0 1 0 x 3
(旭) 泉 - 揚
(沖) 安里 - 宜保
三塁打 : 上原忠(沖)
ニ塁打 : 田中(旭)

3回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
沖縄水産0 4 0 0 0 1 0 0 0 5
鹿児島商工0 2 0 0 1 0 1 0 2x 6
(沖) 安里、上原晃 - 宜保
(鹿) 長浜、迫田 - 菊橋
三塁打 : 佐久原(沖)
ニ塁打 : 知念、次呂久(沖)、菊橋2(鹿)

安里卓氏

若狭小学校(若狭タイガース)で小学校4年から始め、那覇中学から沖縄水産高校へ進学。沖縄水産では、3年の春季大会と夏の選手権で優勝。夏はエースとして甲子園の切符を掴んだ。沖縄大学へ進学し、卒業後は、軟式野球チーム「奥武山スポーツ」に所属。「奥武山スポーツ」ではニッサングリーンカップ(現オリオンスパーベースボール)で全国大会へ2度出場した。

 

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