突然襲ってきたイップス!不安と苦しみに耐え続けた壮絶な投手人生
伊佐真琴
2014-07-11
沖縄水産を倒せるチームはどこだろうか
学童野球チームの新川で、主にキャッチャーとして野球に携わっていた伊佐氏は、南風原中学ではサードやショートを務めていた。二年生になり新チームのスタートを切ったとき、遊び感覚の中での紅白戦でマウンドに上がると、これが指導者の目に止まった。そこから本格的にピッチャーとして投げ込み、三年生の夏はチームを県大会へと牽引するまでに成長。と、ある日、沖縄水産高校の監督であった栽弘義氏が姿を現す。しかし声を掛けられたのは伊佐氏ではなく、女房役の後藤捕 手だった。「オレは眼中に無いのか!という気持ちになリました。と同時に、それじゃ沖水を倒せる高校はどこだろうか?と探すようになりました」(伊佐氏)。
1990、91年と連続して全国高校野球選手権沖縄大会で優勝していた沖縄水産高校は、甲子園でも準優勝するほどの強さを持っていたが、同じその二年間でベスト4入りしていたのが那覇商業高校だった。少年時代に白い帽子を買ってきては、マジックで沖水と書いて練習していた伊佐氏は、その憧れのチームを倒すという意志を持って、那覇商業高校野球部への道を選んだのだった。
脚光を浴びた一年生中央大会
1992年11月21日。伊佐氏は一年生中央大会の初戦である豊見城戦に先発。打者20人(試合は5回コールド勝ち)に対し僅か1安打に抑えて信頼を勝ち取ると、二回戦(美里戦)では2安打完封、そして準決勝(豊見城南戦)の7回に失点するまで20イニング連続無失点(自責点ゼロ)の好投でチームを決勝へと導いた。
ファイナルゲームの先発は草場。疲れを考慮してベンチスタートとなった伊佐氏だったが、同点に追い付かれた直後の7回から登板すると、浦添商業高校打線をノーヒットに抑えてチームに勝利を呼び込んだ。この大会で伊佐氏は、合計4試合27イニングを投げて防御率ゼロという華々しいデビューで、一躍脚光を浴びることとなった。
九州大会準優勝で選抜出場!
翌年の夏の選手権沖縄大会でチームは、金城、比屋根の両投手で決勝に進むも浦添商業高校の前に敗れ準優勝。新チームで迎えた新人中央大会でも準優勝し、確かな手応えを掴んで迎えた秋季県大会で、伊佐氏とチームは強烈な輝きを見せた。3試合連続でコールド勝ちを収めると、準決勝の石川戦を7対3、決勝の北中城戦でも10対1と圧勝で頂点へ。チームが全5試合の全てで二桁安打をマークし46得点を奪うと投げては伊佐氏が、38イニングを投げて被打率。144、防御率0.47と驚異的な数字を叩き出して優勝に貢献。
その那覇商業高校の勢いは、沖縄県で開催された第117回九州地区高校野球大会においても衰えを見せず快進撃を続ける。初戦の福岡大大濠高校(福岡県)戦では1番の仲里が3安打、4番の多高良がホームランを含む4安打4打点と爆発して9対4で快勝すると、続く鹿児島商工高校(現樟南高校)戦では3番草場と6番犬嵩が、ともに3安打を記録するなど、全国区のヒーローとなっていた鹿児島商工のエース福岡真一郎投手に12安打を浴びせて勝利した。
そして迎えた1993年11月3日。選抜選考の大事な準決勝で、伊佐氏は熊本工業高校打線を僅か1安打に抑える見事なピッチングを披露。ダブルヘッダーとなった鹿児島実業高校戦では疲れもあったか15安打を打ち込まれてしまい優勝は逃したものの、しかし堂々の準優勝で選抜への切符をほぼ手中に収めたのだった。
雰囲気に飲み込まれてストライクが入らなくなる
「九州大会で鹿児島商工や熊本エ、鹿児島実という全国でもビッグネームと互角にやれたということで、やはり浮かれていた所はあったと思います」と伊佐氏は、当時の甲子園出場を振り返った。
初戦の高知商業高校戦で、那覇商業高校は3回に1点を失うと続く4回にはタイムリーエラーなどで3点を失う。その後、焦りと同時に甲子園の雰囲気が伊佐氏を飲み込む。ストライクが入らなくなってしまい8四死球を出して自滅。「(九州大会で)ちょっと勝ったくらいで、『甲子園では三振をたくさん奪ってチームの勝利に貢献したいです』と言って(浮かれて)しまう。沖縄水産や尚学、興南と言ったところならそうはならない。やっぱり田舎もんですよね」と伊佐氏は苦笑いを浮かべた。
監督からの言葉は投げたいように投げろ!
第118回九州地区高校野球大会では日南高校(宮崎県)を相手に8対1と快勝した那覇商業高校だったが、続く樟南高校(鹿児島県)戦では秋のリペンジに燃える福岡真一郎に4安打、8奪三振と抑え込まれて7回コールド負けを喫した。そして迎えた夏の直前、甲子園への帰還を目指しているチームを横目に、イップスで思い悩んでいた伊佐氏は、冒頭の言葉を神山昴監督に告げた。
ストレートでストライクが取れない!こんな状態でマウンドに上がっても、チームに迷惑をかけるだけ。エースとしての責任がそう言わせた。しかし、神山監督からの言葉は伊佐氏の予想を大きく上回る温かいものだっ た。「センバツを含め、これまでチームがやってこれたのもエースであるお前のおかげなんだ。お前の投げたいように投げれば良い。責任は全て私が背負う」。
幸い、何故か変化球だけはコントロール出来た。だが、マウンド上からストレートを投げようとすると、投げた本人も どこにいくのか分からないほどの重症は、結局治ることが無いまま、最後の夏がやってきた。
37年振りの選手権沖縄大会優勝
「相手の特徴とかいったものは全くの二の次。とにかくストライクを取れるかどうかということばかり念頭にあった夏の大会でした」(伊佐氏)。マウンドヘ立つ以上、とにかく試合を作らねばならない。初戦(二回戦)の北部農林高校戦こそ、被安打1(試合は5回コールド勝ち)とまずまずに見えたが、三回戦の沖縄工業高校戦、準々決勝のハ重山戦とイップスに苦しむ伊佐氏は、2試合で14個の四死球を重ねてしまう。
しかし一方で、その3試合で打たれたヒットは僅か2本だけと、キレのある変化球を中心に組み立てて相手をねじ伏せていった。「もう、ストレートはカウントが有利なときだけですよね。例えばツーストライクノーボールとか」。
伊佐氏にとってもそうだが、キャッチャーにとってもツーストライクからのデッドボールだけは避けたい。そんな見せ球として使うストレートは、キャッチャーが反対側のバッターズボックスの外に構えるほどであった。「やっぱり(構えたところの)そこにボールは行かなかったけど、逆にベースを通過して三振ということもありました」(伊佐氏)。
準決勝の沖縄水産高校戦では5番に座った伊佐氏が2安打を放つなど、5回までに9安打を集めて6点を奪うと、伊佐氏をリリーフした伊波が3回2/3イニングをノーヒットに抑えて勝利。決勝戦では「さすがに監督から『代わりたいのか!』と」カツを喰らった伊佐氏は、決して意地からではなく、皆に迷惑を掛けた分、最後は頑張りたいとの思いで投げさせて下さいと直訴。四死球も3つに抑えて1失点完投で、那覇商業高校としては37年振り2度目の選手権沖縄大会の優勝と、同校にとって初となる夏の甲子園出場を決めたのだった。
人生一番の緊張感に包まれた8回の裏
第76回全国高校野球選手権大会出場を決めた那覇商業高校。その抽選会でキャプテンが引いたのは全国にその名を轟かす横浜高校(神奈川県)たった。「よりによって横浜かよ!と。一勝くらいしたいんだぜって突っ込みました(苦笑)」。もう負けて元々だなとナインを半分落胆させたのも無理は無かった。
実は約ニケ月前に横浜高校は招待野球試合で沖縄へ来ており、その時に那覇商業高校も対戦し8対5で敗退(横浜は浦添商、美里、沖縄水産にも勝ち4戦全勝)していたのだった。だが、その敗戦こそが那覇商業高校と伊佐氏にとってのレジェンドヘの布石となっていたことなど、誰も知り得なかった。
「招待野球の頃はどちらかと言うとまだストレートで押していましたから、甲子園へ来て変化球ばかり投げる僕に面喰らったのかも知れませんね」と語った伊佐氏は、ボール先行ばかりのピッチングでランナーが出れば要らない牽制球ばかり投 げてたと横浜との戦いを振り返った。ある新聞は『のらりくらりで相手のリズムを崩した技巧派投手』と書くほどだった が、「相手の4番とは3打席目までは勝負に行っての四球」(伊佐氏)だったことからも、ストライクが入らないことに苦しんでいた伊佐氏の当時の実情が如何ばかりだったのかを、逆に窺い知れる見出しとも言える。
その試合の終盤8回表、横浜高校は二死ながら二・三塁としてその4番打者を打席へ送る。那覇商業高校としては一塁が空いていることもあり、当然の敬遠策を敷いたが、「スタンドから勝負しろ!」と。その声がグルっと回ってホームペース後ろから、マウンドの僕ヘグワーッと来るように感じました」。あの時が野球人生で一番緊張したと伊佐氏。そんなプレッシャーの中で、次打者をストライク先行で追い込み最後はショートゴローその裏に1点を加えた那覇商業高校は、9回も伊佐氏が抑えて4対2で強豪横浜高校に勝利するとともに、春夏を含めた聖地初勝利を記録。これが那覇商業高校が成し遂げたレジェンドの、表と裏の一幕であった。
やった分だけ、人生必ずプラスになる!
続く佐賀商業高校戦では6回までゼロに抑えるも、7回にスクイズで同点とされると8回には「ストレートは来ない!変 化球待ち」と読まれていた田中選手に右中間へのタイムリー三塁打を浴びてしまい、高校野球生活を終えた伊佐氏。
その後、三菱重工長崎へ進み社会人野球としての人生を送ってきたが、それでもイップスが治ることは無かった。「最終的には甲子園に行けたことは人生のプラスですが、社会人野球に進んでからは、僕にとっては地獄のようなものでした」と伊佐氏。どうしても周りが過度に期待してしまう『甲子園であの横浜に勝った投手』の肩書き。でも期待に応えられない日々が続き、ついには肘を壊してしまった。「でも健康なところはたくさんある。とにかくチームに貢献したいと」話した伊佐氏に、当時の監督は外野手としての登録を認めた。
肘が壊れるほど、人よりも何倍も投げ込んで練習してきた伊佐氏のことを知っているからこその配慮だった。今でも軟式 ボールなら100m投げられると言うほど、元来強肩の伊佐氏。「あれだけ入らなかったのに、外野からだとキヤッチャーミットにストライクが入った」と笑いながら、とにかくあの最後の一年間があったおかけで、野球の楽しさを改めて知っ たと語った。「こんなに暴投ばかりしていた僕でも甲子園に行けた。だから君たちも諦めないで頑張れ」と、あえて自らの体験や失敗談を交えて伝えていく人生を望むとも話してくれた。そんな伊佐氏から高校球児だちと、那覇商業高校の後輩 たちへの金言を載せて締めようと思う。
伊佐氏「考え過ぎる子が多い。四の五の考えないで、いま目の前にあることを懸命にやれ1・やった分だけ、人生どこかで必ずプラスになるのだから」
のがれられないイップスという不安から決して逃げず、常に自分に真っ向勝負をしてきた男。その彼に苦しみを背負わせ たのは野球だ。しかしその野球を愛していたからこそ、「絶対にギブアップしない強い心」(伊佐氏)も育まれた。 彼はこれからも人生のマウンドに立ち続ける。自分を強くしてくれた野球と、大切な会社、そして愛する家族を守るために。
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