あと数センチだった大会通算300号本塁打 1977年(昭和52年)、春夏連続出場を果たした豊見城高の5番打者
国吉 真順
2014-09-11
国吉 真順
狙って逃した大会通算300号本塁打
1977年(昭和52年)の夏の甲子園。豊見城高校は初戦となった2回戦で岡山県代表の水島工業と対戦した。この試合で豊見城の2番打者比嘉康哲が、7回表に大会通算300号となる本塁打を左翼ラッキーゾーンへ放った。実は、前の試合が終わった時点でこの試合でホームランを打ったら大会通算300号だとチームのメンバーはみんな知っていた。クリーアップを担っていた国吉氏は300号の話を聞き、密かに狙っていた。
「最初、入場行進のリハーサルのときにめっちゃくちゃでかい球場だな、凄いなと思いました。でも、実際の試合でグランドに立ちに見渡すと超狭いなと感じたんです。これなら簡単に入るなと思いました」という国吉氏。当時の甲子園球場はラッキーゾーンが設けられており、実際に県予選が行われた奥武山球場に比べても狭かった。 そして狙って打った打球が幻の300号となったのが6回表の打席だった。豊見城は、この回1点を奪い、なお1死二塁の場面で5番国吉氏に打席がまわった。このチャンスに国吉氏が放った打球はレフトの頭上を越えるライナー性の飛球。「ウォー」という大観衆の声が響いた。スタンドで応援する同級生たちも一斉に立ち上がって「来たぞ」と声を上げた。 しかし非情にも打球はラッキーゾーンのフェンスの最上部に当たり高く跳ね上がった。「打ったあとに普通ガッツポーズをするじゃないですか。二塁に行ったときに超ショックでした」。本人は300号を打ったつもりだった、しかし届かず、結果は二塁打。後日、ビデオでそのシーン観たという。「放物線を描く打球ではなく、ライナーでしたね。パカーンって音が聞こえました。そのときは、よっぽど運がないなと思ったりもしました」。記念の300号まで、あと数センチだった。歴史に名前が刻まれたのは同じチームの2年生、比嘉康哲だった。
高校から野球を始めて強豪豊見城のレギュラーを掴む
国吉氏は、第49回センバツ大会と第59回選手権大会に5番レフトで出場した。2年生石嶺和彦(阪急ドラフト2位)が4番キャチャーに座り、エースは下地勝治(広島ドラフト2位)というチーム。春のセンバツは、初戦で酒田東(山形県)に10対0と快勝したものの、優勝した箕島(和歌山)と2回戦で対戦し0対10で敗れた。夏の選手権では、水島工、広島商を破りベスト8に進出、ここでも優勝した東洋大姫路(兵庫県)に3対8で敗れた。国吉氏は、春夏5試合すべてでヒットを放った。
当時、栽監督率いる豊見城高は強豪校として名をはせていた。県内各地から甲子園を目指して有望選手が野球部に入部していた。そんなレベルの高い選手が集まる野球部に野球経験ゼロの国吉氏は飛び込んだ。中学時代はサッカー部。県のサッカー祭りで準優勝したチームのエースストライカーだった。しかし、当時はJリーグもまだ発足していない時代。中学3年生の国吉氏は思った「サッカーでは就職できない。野球なら就職につながる」と。 そして、野球に対して全くの素人にも関わらず、強豪野球部で力をつけて野球で就職するという目的で豊見城高校に進学したという。ルールも野球用語もまともに知らなかったというから、他人が聞くと無謀とも思える発想だが本人はいたって本気だった。入学当初、サッカー部からの勧誘を断れずに1学期を過ごすも、「野球で就職する」という考えをぬぐい去ることのできなかった国吉氏は野球部の門をたたく。当時としては異例の1年生の夏休みからの入部が認められた。入学当初100名以上いた1年生部員も14、5人に減っていた、そんな時期である。
量をひたすらこなした高校時代
野球部に入部した国吉氏だが、栽監督に「君は向こうに行け」と指差された先はトレーニング場。最初の1ケ月間間は、ユニフォームを着替えるとトレーニング場に直行し、練習終了時までひたすらウエートトレーニングだけを行った。その次に与えられたメニューがティーバテッィング。こんどは練習の最初から最後までひたすらトスされたボールをネットに向かって永遠と打ち続ける日々。ポリバケツ一杯のボールを打っては、またボールを拾い集めて打ち込む。「僕の練習は一人だけ他の部員と別。ティーバティングとウエートトレーニングだけでした」。しかし、国吉氏が後にクリーンアップを担う打者へと成長するのだから、そこには栽監督の眼力を感じられずにはいられない。「当時の野球部の同級生は、県内でも名だたる経歴の持ち主が集まっていて、到底勝てるという意識はなかった」というものの、ひたすらバットを振り続けた。他のメンバーが小学校4年生の頃から野球を始めて高校に入るまでの6年間で振ったであろうスイング数に追い付かなければ対等になれないという思いで、来る日も来る日も一日5000球以上打った。手のひらがさけてパカっと開けたら骨が見えたという。めくれた手の平を授業の間は、手を握った状態でずっと指で押さえているから、こんどは指がこう着する。それでもまた練習でバットを振った。「甲子園に出たときには追い付いていたと思います。他の部員が野球を始めた頃から振ってきたスイングの数を超えたかなという感覚になりました」。とにかく数だけは負けなかった。守備も猛特訓した。2年の夏休みは新垣と二人で毎日居残りし、外野ノックを受け続けた。「練習量が多ければ越えることができる。数こなせば、なんとかなる」。国吉氏が高校時代をとおして掴んだ実感である。
いかに国吉氏が野球とは無縁のまま入部したかというエピソードがある。初めてのキャッチボールの相手が、後に巨人に入団したエース赤嶺賢勇。先輩の赤嶺に声を掛けられ相手を務めるたが、赤嶺の投げたボールが捕れなかった。グラブを差し出す手が間に合わない。言わば、子供と大人のキャッチボール。危険だからとすぐに交替させられた。その時はボールを捕るのは不可能だと思ったという。それでも、見ているうち、やっているうちに慣れて捕れるようになり、投げ方も練習していると、もともと地肩が強かったせいかチームでトップクラスの強肩となった。
新チームのメンバー発表で予想外のベンチ入り
3年生が引退すると新人大会が始まる。その新チームのメンバー発表で背番号10をもらった。練習試合にも出ていなかったので、突然のことに驚いた。そして一回戦、こんどは5番打者でスタメンに呼ばれた。初めての打席が公式戦。デビューは三球三振。1打席ですぐに交代を告げられたというが、栽監督は国吉氏が練習に打ち込む姿をみて、その能力に気付いていたのであろう。「たしかに癖もない素直なバッティングフォームが身について、パワーもついていたので当たったら飛びました」。秋季大会では背番号7番のレギュラーとなりクリーンアップを打った。豊見城は秋季県大会を制し、地元沖縄で開催された九州大会へ出場(地元開催で宮古、普天間も出場)。九州大会では、優勝した熊本工業に準決勝で5対4と惜敗したものの、春のセンバツへ選出された。当時の豊見城の打線は九州一といわれる打力を誇ったが、その中でも国吉氏の打棒は光り、センバツ出場全選手の打率ベスト10に名を連ねた。
卒業後は東海大、そして社会人の日本通運浦和へ
夏の甲子園が終わり、国吉氏は熊谷組から誘いを受ける。「野球で就職する」という目標が現実のものとなろうとしていた。しかし、そこに現れたのが東海大の原貢監督。大学を卒業して就職したほうがいいと勧められ、東海大へ進学する。「その時はジャイアンツの原監督もいっしょにやっていたし、全国から優秀な選手が集まってきている中でやったというのは、すごい収穫ですよ」と大学時代を振り返る。さらに社会人野球の日本通運浦和へ入社。ついに野球で就職するという目標を実現。日通浦和では、元西武の辻や元巨人の勝呂らとプレーし、都市対抗への出場も果たした。その頃はプロ野球を目指していたという国吉さん。実際2年目には複数の球団からの声掛けもあったというが、その時の球団の外野手事情や指名の条件を鑑みて、決断には至らなかった。それでも「トップレベルで野球ができたのは大成功。仲間や同僚にはプロ入りしたのも多いし交流も広がっているのでとても良かったと思う」と話す。
現在、寄宮中学校で外部コーチを務めている。あしかけ12年になる。「野球を通じていろいろな経験をすることができた。これも原貢監督、栽監督のおかげと感謝している。今、中学生をみているのはそういった恩をもらっている以上は、返さなければいけないと。そういう思いでやっています」と国吉氏。さらに「野球はやらないよりやったほうがいい。実際にやって、悔しい思い楽しい思いをして、いろいろ学んで全部プラス方向に持っていければベストだと思う。特に少年時代。例えば、小学校3年から野球を始めて高校3年まで10年間野球をやることによって寄り道をしない。これも一つの目的。 野球を通して将来的には絶対プラスになる。だから、野球を好きにさせたい。」と語る。そして自分の経験をもとに「数をやれば自分で自然に覚える。数数をこなすことが一番の近道、持続して数をこなせば、必ず追い越せることに気付いてほしい」と子供たちにエールを送る。
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