浦添商業、夏の甲子園初出場の三塁手

宇久陽介

2015-07-15

2年生主体のチームで甲子園出場を果す。

浦添商業が学校創立以来、初めて甲子園に出場したのが1993年の夏だった。

投手と左翼手以外は2年生という、2年生が主体のチームで県予選を勝ち抜き、甲子園出場を果した。

そのチームで5番サードを務めたのが、宇久陽介さん。投手としても甲子園のマウンドにあがった。

浦添商業が甲子園に初出場したのは、沖縄水産が夏の甲子園で2年連続準優勝してから2年後のこと。

盛根監督が率いる浦添商業も県内の強豪校として名を連ねるようになっていた。

しかし、その年のチームは、2年生が主体のチームなだけに、宇久さん自身は甲子園に行くぞという目標は見えていなかったという。

それでも、どことやっても負ける気はしなかったといい、とにかく勝とうと臨んだ県大会では、驚異の粘りを見せた。

3回戦の美里戦では9回二死からの逆点勝ちを収める。

準々決勝の沖縄水産戦は3対0で破り、続く準決勝の前原戦では4対2とリードされた9回表に3点を奪い試合を引っ繰り返した(その裏、同点とされるも延長10回表に決勝点を奪い勝利)。

そして決勝では、3年生エース国仲の好投もあり那覇商業を5対0で下した。甲子園出場が決まると日増しにマスコミの取材も増えていった。

そのときに「あぁ、甲子園ってすごいところなんだな」とだんだんと実感が湧いてきたという。

楽しめた開会式

「開会式は、あれだけの人が見ているし、すごかったですね」と話す宇久さん。

そして、生で歌う"栄冠は君に輝く"を聴いて感動し、テレビでみた有名校のユニフォームを実際に見ては感動した。

また、県外の選手の身体のでかさを間近で見てすごいなと思ったり、注目の選手を見つけては、あっあいつだと喜んだりした。

「僕ら2年生だったんで」(笑)と一野球ファンのような感覚で嬉々とした開会式でもあった。

ひとつ残念だったのは、大会前の甲子園練習が雨のためにできずに、場所を室内練習場に移されたこと。

楽しみにしていた甲子園球場での練習ができなかった。

神奈川県代表の横浜商大高と対戦

試合の相手は、神奈川県代表の横浜商大高。結果は6対1で敗れた。

宇久さんは振り返る「負けた原因は、地に足が着いていなかったことでしょうね。初回にホームランを打たれて、チームが、バタバタしていましたね。

あれよあれよという間に試合が終わっていました。初出場というのもあったし、ゲームをうまく運べていなかった。向こうのリズムで試合をされてしまった」。

ベンチ入りメンバー15人中10名が2年生。レギュラーも7人が2年生。チームの若さが露呈したようなゲームになった。

サードを守った宇久さんは、6回途中からマウンドに上がった。

「後ろが広いんで、ホームベースがすごく近く感じた。これ投げやすいって気持ちでした」。

登板を指示されたときは、「甲子園で投げられる、もっと目立つな」と喜んだ。約3イニングを投げ、スクイズによる1点に抑えた。

「空振りをとったときに、相手のバッターが"早いな"って顔を見せたので嬉しかったのを覚えています」。

松ヤニスプレー

守備やピッチャーでは普段通りのプレーができた宇久さんだったが、5番打者としては4打数ノーヒットに終わった。

相手のピッチャーのテンポが速くて、自分のバッティングができなかった。

しかも、試合中に3度も相手ベンチに向かってバットを投げてしまった。スタンドからは、どよめきが起こった。

当時はバッティング手袋が認められていない時代。

予選で使ったこともなかった滑り止めの松ヤニスプレーが甲子園で用意されていた。

「甲子園に来たらこんなの使えるんだな」と思った宇久さんはバットに松ヤニを塗りまくった。

すると、最初はくっついていたのが固まり、グリップはツルツルに。汗でびしょびしょになった手と松ヤニでツルツルになったグリップ。

いくらロージンをつけてもダメで、空振りしたバットが後方に飛んでいった。飛んでいったバットを拾い打席に戻る。

本人が、ありえないと思う光景を甲子園球場で3度も披露した。思い切りバットが振れなくなった。後悔したが、あとの祭りだった。

試合後の取材陣の多さにびっくり

甲子園球場にはインタビュースペースがある。

試合後に監督や選手がインタビューを受ける場所で、テレビでもインタビューの様子が流れる。ただ、テレビには取材陣の姿は、ほとんど映らない。

試合に負けてインタビュースペースについた宇久さんは取材の人の多さに非常にビックリした。

「あーすごい。甲子園ってすごいなあ、試合に負けても、こんなに記者が来るんだ」と驚きと少しの興奮を覚えて一人で笑っていたという。

プラカード嬢に一目ぼれ

「かわいいって思ったんですよ、初めて会った瞬間に」。

浦添商業を担当した女子生徒は、自分がプラカードを持った高校だから絶対に勝ってほしいという気持ちで、試合の日まで、毎日、練習場に顔をのぞかせたという。

グランドで昼食をともにするなど部員と親交を深めていく中で、2年生の宇久さんは、3年生の先輩にもかまわず「自然と仲良くなっていました。

あとあと聞くと周りからはひんしゅくだったみたいですが」(笑い)。

携帯電話も無い時代だったが、その後もしばらくは連絡をとりあっていたという。これもまた甲子園に出場した球児だけが経験できる思い出となった。

行けなかった甲子園

2年生が主体のチームで甲子園出場を果した浦添商業。宇久さんたちの代になったときは、周りからも「甲子園はもう決まりだろ」というように見られた。

本人たちも行けるものだと思っていた。しかし、2度目の甲子園は実現しなかった。

新人大会と春季大会は優勝したものの、甲子園のかかった大会で勝てなかった。

秋は、まさかの一回戦敗退を喫し、最後の夏も準々決勝で敗れた。

その後、宇久さんは、さらに上のステージを目指して大学、社会人と野球を続けた。

大学、社会人と野球を続ける中、人とのつながりを深めたり、広げる上で甲子園に出たことは多いにプラスに働いたという。「甲子園、楽しかったです」

Profile

宇久陽介

1976年生まれ。牧港小学校の牧港少年団で野球を始め、港川中学校では投手。
浦添商業入学後は、野手と投手を兼ねる。
高校卒業後は、専修大学は進学。大学進学後は投手に専念。
4年春には東都リーグのベストナインに選出された。
また、4年時にはジャパンの一員として社会人の選手に交じり4ケ国大会にも出場した。
その後、社会人野球の新日鉄名古屋でプレーした。

1993年 第75回全国高等学校野球選手権大会一回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
浦添商業0 0 0 0 0 0 0 0 1 1
横浜商大高1 3 0 0 1 0 0 1 x 6

 

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