夏の選手権、県勢初の1勝をあげた首里高校の主将
宮里正忠氏
2015-09-15
甲子園の奪三振記録
選抜でのショックが大きかったのか沖縄へ帰ってきたら、練習にも気の入らないような、どうにもならない状態に陥った。「これでは、いかないじゃないか。このまま引き下がれないだろ」と主将だった宮里さんはチームメイトを一人ずつ説得してまわった。夏へ向けてのチームのスタートはメンバーの士気を取り戻すことから始まった。
1963年(昭和38年)の春の選抜。泊港から出航し鹿児島へ渡り、鹿児島から夜行列車で大阪入り。沖縄を出発してから3日目にたどり着いた甲子園で待ち受けていたのは、強豪のPL学園だった。
抽選会でいきなり甲子園の常連校を引き当てた宮里さんは、自分自身で「あじゃー、へんなくじを引きやがって」と思ったという。
当時の沖縄は米軍の施政下に置かれていた。本土の高校と試合をする機会もほとんど無く、年に一度、高野連から派遣されてくる選抜チームと交流試合を行なうくらい。その交流試合でも、本土から来るチームに全く歯が立たなかったという。
大会前には大阪の強豪校・浪商(現在は大阪体育大学浪商)からグランド提供の申し入れがあり合同練習を行い、強さの秘訣を垣間見る経験はしたものの、田舎のチームという意識はぬぐえなかった。
甲子園練習でも「長旅の疲れか、緊張のためか」と新聞に書かれるほど、動きは鈍かった。
チームは硬さのとれないまま強豪PLと対戦する。相手投手は、後に阪急ヌレーブスに入団した戸田。「当時としては球は速かった。打席に立ってバットで捕らえきれるという感覚はなかった。ファールするのが精一杯」と21個の三振を喫する。
50年たった今も破られていない春の選抜の三振記録をつくった。(夏は2012年に桐光学園の松井裕樹(現楽天)が22個を記録)。
「結局、野球をしたんじゃなくて、あそこにユニフォームを着て立っていただけなんだよ」と当時を振り返る宮里さん。
試合中にあられが降る状態で気温も5,6度という沖縄で経験したことのない寒さ、試合は途中から初めて体験するナイターへ、ベンチはベンチで固まっていて三振をいくつとられたのかも分からなかったほど。試合後は完敗のショックと寒さに耐えられず、宿舎へ一目散に帰った。
春夏連続で甲子園出場を果す
その年の夏の選手権は45回記念大会で、宮崎県代表と甲子園出場を争う南九州大会がなく、沖縄にも出場枠が与えられた。
甲子園での敗戦が尾を引いていたメンバーを叱咤し、新たな気持ちで夏の甲子園を目指した首里だったが、県内で圧倒的な強さを誇っていたわけではなかった。
夏の県大会もダークホース的な存在で、優勝候補の筆頭は中部農林、続いて那覇。他にも強敵が目白押しだった。
県大会の準決勝では沖縄水産と3対3の日没引き分け再試合を演じ、翌日1対0で辛勝。決勝でも7:3で那覇との下馬評を覆し、7対4で勝利を収め甲子園出場を手にした。
「最初は普通のチームと変わらなかった。やっていくうちに自信がついて強くなった感じ。それと監督さんの采配が他の学校と違った」と宮里さんは話す。
何もかもが初めてずくしだった春と比べて、夏は「ただでは帰れない」という気持ちで、甲子園入りしてからも相当練習したという。試合直前には、立命館大学のグランドで合宿も行ない、大学生とともに練習した。
「調整なんて関係なかった。弱いチームは練習するしかない。とにかく、目を血走しらせて向かわないとどうにもならないと、暑い中、大学生といっしょに練習した」。
今でこそ、沖縄から甲子園に出場するチームは常に上位進出を期待されるが、当時は、野球後進県。春の苦い経験もあり、どうしたらいい勝負をして大恥かかずに帰れるかなと考えていたという。
沖縄県勢、選手権初勝利
初戦の相手は、日大山形だった。当時、山形県もまた甲子園未勝利県。宮里さんも東北や山陰のチームとなら、いい勝負ができるのではないかと思っていた。
3回裏、二死から二塁打で出塁した走者を置き、宮里さんがライト前にヒット。
先取点をあげた。試合は、その後シーソーゲームとなった。3対2と1点のリードを許した直後の7回裏、首里は2点を奪い逆転に成功。
8回、9回の山形の攻撃を0点に抑えて逃げ切り勝利を掴んだ。この試合、行なわれたのは西宮球場だった。
記念大会で参加校が多かったことから、日程消化のため甲子園と西宮球場を使って夏の選手権大会は行われた。沖縄県勢甲子園初勝利は、甲子園ではなく西宮球場だった。
勝利の喜びもつかの間、進んだ次戦の相手は、その年の春の選抜優勝校・下関商業。下関商業には2年生の怪物エース、池永正明がいた。
池永は、高校卒業後に西鉄ライオンズに入団、「黒い霧事件」に巻き込まれて退団を余儀なくされたが、1年目に新人王を獲るなど、退団までの5年間で103勝をあげたすごい投手。
その池永が二回戦で左肩を脱臼し、首里との一戦に登板することができなくなった。「池永が登板しない。これならいけるかもしれない」首里ナインは思った。そして、普段はライトを守る坂本がマウンドに上がった。
ところが、「そいつも球が速くて。結局、打ち崩せずに完敗」。8対0で敗れた。
「ずっと目指していた甲子園。春は残念な結果だったけど、夏は沖縄の高校野球の扉を一つこじ開けることができたので良かった」と52年前を振り返った。
宮里正忠氏
第35回選抜高校野球大会 1963年(昭和38年):一回戦
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
首里 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
PL学園 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | x | 8 |
第45回全国高等学校野球選手権大会:二回戦
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
日大山形 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 |
首里 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | x | 4 |
第45回全国高等学校野球選手権大会:三回戦
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
首里 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
下関商 | 2 | 0 | 2 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 8 |
連載・特集記事
青春応援席
頑張ってます!!マネージャー・チームの縁の下の力持ち
レジェンドオブ甲子園
REGEND of LOSHIEN レジェンド・オブ・甲子園
上原拓先生のアフリカ便り
上原拓先生のアフリカ(タンザニア・ザンジバル)便り
手留照(てるてる)の甲子園への黄金の5ケ条
手留照(てるてる)の甲子園への黄金の5ケ条
今月のしーぶん
今月のしーぶん
県外でもチバリよ~!
大平 山人(おおひら やまと 宮古と内地を行き来する野球好きの料理自慢)
ベースボールクリニック
治療や予防方法について専門家がアドバイスします。
トレーニング・ルーム
野球人にとって最適なトレーニング方法とは
ザ・審判
白黒つけました。 思い出の試合あれこれ
知ってる?知らなかった?
英語のようで英語ではない日本の野球用語の話
審判という仕事
審判技術自己診断上達チエックリスト
社会人野球選手録
社会人野球選手録
Pick Up PLAYER
Pick Up PLAYER
クローズアップ野球人
クローズアップ野球人
We LOVE BASEBALL
私たちは沖縄の野球大好き人を応援します。