昭和61年、春夏連続出場した沖縄水産の4番打者

吉永靖

2015-03-14

昭和61年、沖縄水産は2年生投手上原晃(元中日)を擁し、初めて春夏連続で甲子園出場を果した。沖縄水産にとって春のセンバツは初出場。夏は3年連続の甲子園だった。そのチームで、2年生投手上原晃を支える女房役を務め、打撃では4番打者を担ったのが吉永靖氏。興南との激しいライバル争いを制し甲子園へ駒を進めた沖縄水産。春は一回戦敗退、夏は準決勝進出を目前としてサヨナラ負けを喫し、苦い思い出となった。

吉永靖

那覇中学校から沖縄水産高校へ進学、4番捕手として春・夏の甲子園出場をはたす。沖縄大学に進学し、大学卒業後は硬式野球チームの琉球銀行クラブでプレー、現在、沖縄トヨタ自動車株式会社勤務。

球場に呑まれ、あっという間に終わったセンバツ

1986年3月、前年秋の九州大会で準優勝した沖縄水産は、初めて春のセンバツに出場した。一回戦の相手は大阪の上宮。「あっという間に終わりましたね。1時間58分。試合時間は2時間切っていました。先輩たちの応援で上から見てはいましたが、いざグランドに降りたら球場に呑まれてしまって、あっという間に試合が終わった感じでしたね」。初めての甲子園は力を発揮する間もなく3対1で敗れてしまった。でも、その日の上原の調子は抜群だったという。「あのときが一番いいんじゃないかと思うぐらい真っ直ぐもかなり速かったですよ。スライダーが130何キロでているという話をあとから聞いたりしたのですが、キレも良かったんで、すごかったですよ。上宮相手に10奪三振とっていました」と吉永氏は話す。負けた後の宿舎での説教では栽監督が相当怒って『今回の晃の調子だったらお前ら決勝行けたな』と言われたという。「僕らが打てなかったので、それを栽先生は悔やんでいましたね」。そして次の日、沖縄に帰るとすぐに練習試合が組まれていたという。「与勝まで行きました。だから、甲子園で何があったか分からなかったような状態でした」。春のセンバツ時は練習会場へは電車を使って移動していたといいい、一回戦の対戦相手が地元の上宮に決まったあとに駅のホームでは『沖縄から来たの?、負けたね』とよく言われたという。「まだ沖水が有名になっていないんですよ。名前も『おきみず』と間違えられる時代だったので」と吉永氏。「でも夏にいい影響はあったんですよ。春を経験しているので余裕があった。そこは良かったですね」

ライバル興南を決勝で破り夏の甲子園へ

夏の県予選の決勝は3年連続で興南との対戦となった。「興南に勝って甲子園に行かないと意味がない」と思うほどのライバル心を燃やしていた。野球で有名な同級生は、ほとんどが興南に行っていたといい、捕手の吉永氏は「空振りするだけでスイングがみんなすごいんですよ、ブンって音が。そして基本的に足が速いじゃないですか」と戦々恐々としていた。普段の練習のときから言われ続けていたというが、決勝の試合前にも栽監督が言った。『選手のレベルでは向こうには勝てない。でも俺が勝たしてあげる。俺が出したサイン通りにやっとけば大丈夫だ』。ある意味で栽監督に洗脳されていたという選手たちは、この時に皆信じたという『ああ勝てる』と。沖縄水産は興南を2対1で下した。4番の吉永氏は1回の表に先制打を放ち、その裏には捕手として興南の足を封じた。「決勝で初回に盗塁を刺したんですよ。この時だけは握手してもらいましたベンチで」と吉永氏。チームの怒られ役として、そして捕手としてずっと怒られ続けていた吉永氏が唯一褒められた瞬間だった。「普段やられていたので、初めて褒められるのを見て同級生が後ろで大笑いしていました。握手してもらって、これだけはほんと嬉しかったですね」。栽監督にとっても興南との試合は特別な試合だった。「同級生の有名どころは興南に行っていましたから、僕らは一個上、二個上の先輩によく『谷間』だから、お前ら甲子園行けないよって言われていたんですよ」。ただ、上原を始め、後輩にはいい選手が来ていた。4人の2年生をレギュラーに加え戦った。「興南という存在が大きいですね。あのチームがあったから、僕らは興南を目標してきました」。新人大会の決勝で大敗を喫したあと、秋季大会決勝でリベンジし九州大会に出場(当時は1校出場)、興南に勝った勢いで九州大会も決勝まで上り詰めセンバツ出場も果した。そして夏も打倒興南を果し、甲子園の切符を手にした。

スランプに見舞われた夏の甲子園

3年連続3回目の出場となった夏の甲子園。沖縄水産は初戦となった2回戦、北海道の帯広三条を12対1と大差で下すと、3回戦の京都商業も14対0と大勝した。「そんなにバントもなかったですね。もう打って打ってという感じで」。打線は爆発した。しかし、吉永氏は一人だけ、かやの外だったという。「僕は、3試合で2本しか打ってないんですよ。県大会は4割打って調子も良かったのに、向こうに行って全然打てなかったですね。そんなに叩かれたということなかったですが、4番じゃないですか。悔しかったですね。最後っていうのに、しかも2本のうちの1本はポテンじゃないですか。何しに来たんだろうって思っていましたね。毎日、何百回もバットばかり振ってきたのにと」。準々決勝の松山商業戦では、2対1と1点のリードで迎えた8回裏、走者3塁で犠牲フライを放った。「2対1から3点目の犠牲フライもあれも格好悪いですよ。カーブを腕一本で外野に、不恰好で。やっぱり調子が悪いというのが分かるぐらい。バットを半分投げながらという感じで、よく飛んでくれて犠牲フライでなってくれましたが」。

勝てると思った試合で、サヨナラ負け

2対1と拮抗した展開の8回裏、不恰好ながら追加点となる犠牲フライを自ら打った吉永氏。「自分自身の3点目で勝てると思いましたよ僕は。その緩みがあったのでしょうかね。8回裏に同点にされて9回にサヨナラで負けました」。8回裏、同点の口火となる二塁打を後に近鉄に入団した水口に打たれた。その配球を今でも悔やんでいる。「僕の中で唯一失敗したのは、水口にスライダーばかり投げて打たれたことですね」。上原のスライダーのキレは良く、勝負球としても使っていた。「スライダーを狙われていたんですよ。打たれてはいますが、それまではインコースを攻めていたのに、あそこの場面で勝ちを意識しているもんですから逃げに入ってしまったんですよ。あれは覚えていますね、かわそうとした」。スライダーはいい球だし、まさかそれを狙うとも思わなかった。そして、まさか打たれるはずがないと思っていたスライダーを二塁打にされて、頭の中が真っ白になってしまったという。「そこからガンガン行かれて同点に。配球が配球になっていない。真っ白になって僕が」。試合後、吉永氏は上原と口をきくことができなかったという。

甲子園で盗塁を5回阻止

僕、盗塁を5個刺しているんですよ。どんどん走ってきたので、あれだけは僕誇りに思っていますね。打つほうでは4番なのに、スランプで誰も褒めていないので、最後の記事で守備を褒められたのを見て良かったと思いましたね(笑)」。甲子園では、5連続で盗塁を阻止。最後の1回だけは盗塁を許してしまったというが、3試合で6度企てられた盗塁のうち5度も阻止できたのが、甲子園でのいい思い出だ。

負ける気はしなかったが、欲が足りなかった

「僕らは向こうで負ける気がしなかった。勢いはあったんで。ただ、今考えると、僕らのチーム欲がなかったんですよ。打撃の凄かった一つ上の先輩たちがベスト16。僕らエイトだから先輩たちを越えたなというのがあったかもしれないですね。ましてや谷間って言われていたので。あのときに3-1になって『よっしゃー』っていう勢いがみんなにあれば、僕も含めて。もったいないといえば、もったいないですね」。甲子園でベストエイトに入ったので、秋の国体にも出場した。国体では準決勝で勝利を目前としながら敗れてしまう。「栽先生がベンチで泣いていました。全国大会の決勝戦に栽先生はこだわっていましたね。優勝戦って、よく言っていました」。夏の甲子園でも、行くときから優勝を狙っている気持ちで行けば、もしかしたらもっと上に行けたのかもと思うことがあるという。「でもあの経験はやっぱりいいですよね。大観衆の中で自分を表現すると場というのは一生ないだろうし」

昭和61年(1986年)・第58回センバツ大会

1回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
沖縄水産0 0 0 0 0 1 0 0 0 1
上宮0 0 0 1 1 0 0 1 x 3

昭和61年(1986年)・第68回選手権大会

2回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
沖縄水産2 2 0 0 2 5 1 0 0 12
帯広三条0 0 0 0 1 0 0 0 0 1

3回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
沖縄水産4 0 5 1 0 0 0 4 0 14
京都商0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

準々決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
沖縄水産0 0 0 0 0 1 1 1 0 3
松山商0 0 0 0 0 0 1 2 1x 4

 

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