コザ高校を率いて、1965年春の選抜へ出場した青年監督

安里嗣則氏

2015-08-15

本土復帰前の1965年(昭和40年)の春の選抜にコザ高校が沖縄特別枠で出場した。

沖縄からは2校目となる選抜出場。そのコザを率いたのが、当時、若干24歳の安里嗣則氏。

コザ高校の初戦の相手は、その選抜を制することとなる岡山東商。対する投手は、後にプロで通算201勝をあげた平松政二。船と列車を乗り継いでたどり着いた甲子園で、いきなり強豪校との対戦となった。

佐伯氏の尽力により強くなっていった沖縄

「オール北海道とか、オール京都、オール九州など、単独チームもしくはその県の選抜チームを組んで沖縄県と交流、今の招待野球のような形で組んでくれたのが故佐伯達夫氏(元日本高野連会長)。

おいそれと、簡単に県外へ遠征に行くことが出来ない島国である沖縄にとって、本土チームとの対戦こそ、力や技、そしてマナーなどを学ぶ貴重な体験でした。」と、安里嗣則氏は沖縄の高校野球の恩人である佐伯氏への思いを忘れない。

最初から勝てるはずもなく点差も開く一方だったが、佐伯氏は何度も何度も他県から沖縄へ送り続けた。

「負けてもいいんだ。勉強して、1点1点縮めていけば。」そんな沖縄思いの佐伯氏は、甲子園の記念大会などにも沖縄県から単独代表を送り続ける。

1958年夏の首里高校、60年春の那覇高校、(62年夏の沖縄高校は南九州大会を制して出場)63年春夏の首里高校に続き、65年春の選抜へ出場したコザ高校も佐伯氏の推薦枠によるものだ。

64年の新人大会(当時の名称、現在の秋季大会)を制したのは沖縄高校だったが、九州大会では敗退し選抜への道は閉ざされる。

しかし沖縄野球の向上をその目で見ていた佐伯氏は、翌65年の全国選抜高校野球大会への沖縄枠を推薦。そこで新人大会ベスト8校をもう一度集めて代表を決めようと開催された、その名も選抜高校野球大会において優勝したのが、24歳の青年監督としてコザ高校を率いた安里嗣則氏だったのだ。

何もなかったコザ高校がついに春の選抜大会へ出場

「当時のコザ高校には何もなくてね(苦笑)。」

沖縄市営野球場でさえスタンドもなく、ショベルカーなどで土を盛った上に観客が座って見ていた当時。

コザ高校で安里氏が部室や得点板を作る姿が頻繁に見られた。さらに方言でナージチューと呼ばれる雑草が所々に生えるグラウンドだったという。

最初はボールも18個しかなく、周囲はウージ畑でファールボールを探しに行っては蜂に刺される毎日だった。

そんな中、沖縄で初めてティーを作ってバッティングを始めたのも安里氏だ。そのメンバーの1人、平良章次氏は第11代沖縄県高等学校野球連盟理事長を務めることになるが、その平良氏が要のキャッチャーとして座るコザ高校は、みんながとにかく真面目だった。

「選抜で投げた玉寄がエースだったが実はもう1人、彼より凄いピッチャーが居たんだよ。」

中部工業高校が新設され、コザ高校工業科が吸収合併される形となり、押しも押されぬエースだった石原投手をはじめ工業科にいた数名のレギュラーが中部工業高校へと転校せざるを得なくなったのだ。

しかし日頃の厳しい練習が部員たちの底上げになり、玉寄幸美氏をはじめ日高清氏など好選手が育っていった結果が選抜出場を懸けた大会にて花開き、首里高校との決戦を制して見事甲子園への切符を手に入れたのだった。

聖地へ辿り着く航路の厳しさ

「船で沖縄を出港、鹿児島から兵庫まで鈍行列車で揺られながらの甲子園入りでしたよ、あの頃は。きつかったね。」

船に慣れてない選手たちは、まず船酔いの洗礼を受ける。

玉寄がいないぞ!とハッとしたという安里氏は、海に落ちたんじゃないか!と心配して探したら、トイレの中でダウンしていた。陸に上がっても座りごごちの悪い中で、これまた1日かけて揺られ続ける。

そうやって甲子園に辿り着いた選手たちの状態は、万全どころか最悪に近いコンディションだった。

飛行機でゆったりとシートに座り現地入り出来る今の選手たちは、まずそこから感謝の念を抱きつつ、聖地の土を踏みしめてほしい。

プロでも大活躍した巨人キラーの前に惨敗

「岡山の記者が試合前、私の前に来て、『断言します。1点も取れませんよ。』と。ウシェートーサーやと思いましたね。」

今ではこのような発言をされる記者はいないが、裏を返せばそれだけ言いきれるほど、岡山東商業高校のエースは格が上だった。彼の名は平松政次。

大洋ホエールズで201勝を挙げ、その内の51勝を長嶋や王がいた巨人から奪った巨人キラーだ。中盤まで粘ったコザ高校だったが、終盤打ち込まれ0対7で敗れてしまう。

相手投手の平松氏はこの試合を含む39イニング連続無失点の快投を演じ優勝投手となったのだった。

ちなみにこの大会、兵庫の育英高校には偉大なサウスポー鈴木啓示氏(近鉄バッファローズで300勝)もいた。

コザ高校は比嘉直樹氏が1本、山内正博氏が2本のヒットを記録しただけで終わってしまったが、平松氏と対戦した2回戦と準々決勝のチームも同じく3安打しか打ってない。

また秋季大会まで投げておらず(それまでは石原氏が中心)、全国のエースたちと比べて明らかに実戦不足の玉寄氏が、6回まで2失点と抑えたのも賞賛に値するのではないだろうか。

センバツ

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
岡山東商0 0 2 0 0 0 1 2 2 7
コザ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
(岡) 平松
(コ) 玉寄−平良

コザ高校センバツ出場ナイン

投手玉寄 幸美
捕手平良 章次
内野手真樹志 康照
内野手比嘉 直樹
内野手山城 正博
内野手山内 哲盛
外野手日高 清
外野手運天 常雄
外野手山内 宗吉
補員平 隆司
補員仲宗根 秀利
補員比嘉善勝
補員富川 盛治
補員島袋 昌和
監督安里 嗣則
部長古謝 貢

監督PROFILE

安里嗣則氏

1940年1月10日生まれ。コザ高校学生の頃に佐伯氏によって推薦され、甲子園での試合などをじかにその目で見た。

「指導者になれ」との佐伯氏の言葉を受け、日本体育大学へ進学し野球部副主将を務める傍ら、在学中に体育教師の免許を取得。

その間、東京六大学や名門高校、社会人野球部などを訪れては練習法や采配などを勉強し帰郷。

1964年4月にコザ高校へ赴任。翌年、第37回全国選抜高等学校野球大会への出場を果たす一方、1989年には石川高校を率いて第71回全国高等学校野球選手権大会への出場も叶えた。

第8代沖縄県高等学校野球連盟理事長を歴任。75歳。

 

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