開校3年目にセンバツ出場を果たした真和志高の主将・エース

玉寄清二氏

2014-10-11

1970年(昭和45年)学校ができて3年目、初めての卒業生を送り出す春に真和志高が選抜高校野球大会に出場した。新設校の2期生たちはグランドの整備も十分になされてない中、秋季九州大会に出場を果たした。九州大会では一回戦で敗れたものの、当時の高野連佐伯会長の計らいで参加26校の中に選出された。そのチームにおいて、主将でエースで4番というチームの柱を担った玉寄氏。甲子園では強豪相手に奮闘をみせた。

玉寄清二氏

1952年生まれ。那覇中学出身。真和志高2期生で開校3年目に第42回全国選抜高校野球大会に出場。九州大会へは秋、春の2回出場した。卒業後は肩を痛め野球を断念。ウイリアム商事に入社後、39歳のときにTAMA TRADING CO.を設立、現在に至る。

抽選で引き当てた相手は大会ナンバーワン左腕を擁する優勝候補

主将の玉寄氏が、抽選会を終えた日の夜、宿舎に戻って監督の部屋の前を通ると、入り口が開いていて中がのぞけた。宮里監督と福原部長が宙を見つめたまま二人して真剣な顔をしてずっと黙り込んでいた。「二人とも試合のことを心配しているんだ、悪いくじを引いたな」、とても悪いことをしたような気になった。

主将の玉寄氏が抽選で引き当てた初戦の相手は、その年の高校ナンバーワン左腕湯口を擁する優勝候補の一角、岐阜短大付属高だった。湯口は、高校時代にノーヒットノーランを3回達成(うち完全試合1回)。当時、箕島高の島本(南海1位)、広陵高の佐伯(広島1位))と共に「高校三羽烏」「高校生ビッグ3」と称され、 その秋のドラフトで巨人から1位指名を受けることなる速球投手。くじを引いた瞬間に思わず「アジャー、まずいな」と思ったという。翌日、最初に目を覚ました玉寄氏が手にしたスポーツ新聞には「センバツにいた怪物湯口」と見出しが躍っていた。凄い投手とは知っていたが、「これはいかん」とそのスポーツ新聞を全部捨てたという。「みんなビックリするから。他の選手に見せたくないと思って、やっぱりそれぐらい考えたよ」。当時の沖縄の高校野球のレベルは低かった。主将を務める玉寄氏は自身が不安にかられながらも、チームメイトが試合前から萎縮してしまわないようにと、とっさの行動だった。

高野連佐伯会長の計らいでセンバツへ

真和志高は、新人大会で優勝し、秋季大会で準優勝した。当時は新人大会と秋の大会の両方の成績をみて秋の九州大会への県代表を選んでいたことから、真和志高が九州大会に出場することとなった。試合会場は、西鉄ライオンズが本拠地として使用していた平和台球場。敷き詰められた外野の芝生の、そのきれいさに驚いた。「プロの使う球場って大変なものだな」と感動したのを覚えている。試合は延岡商業と対戦。玉寄氏は5回まで延岡商業を抑えるが6回の裏に2点を失う。真和志高は得点を奪えず、2対0で敗退した。九州大会は1回戦で敗退したので、しばらくは甲子園のことを考えたこともなかったという。しかし年が明けるとにわかに騒々しくなる。本土復帰前の当時、高野連会長だった佐伯氏は沖縄の高校野球に常に気にかけており、センバツにも特別に沖縄の高校を出場させていた。「甲子園があるかもしれない」となり、そして九州枠の1校として出場が決まった。「嬉しいのはとても嬉しかった。楽しみだとも思った。でも、全国のレベルが分からないから、どうなるのだろうかという怖さもあった」。

長旅と初めての雪

復帰前なので、本土に渡るには当然パスポートが必要。パスポートを携え、那覇港から出港。鹿児島に向かった。3月の海は荒れる。全員船酔いという状況だった。鹿児島に着くと、そこから大阪まで汽車で18時間揺られた。今なら飛行機で2時間程度の距離が2泊3日の旅だった。そして大阪では生まれ初めての雪と遭遇する、「初めての雪、こんなふうに降るんだ」。この年の大阪は、3月中は雪が降るような寒い日が続いた年。真和志高が滞在中にも雪が3回降った。「小西酒造のグランドで練習したときにずいぶん雪が降ってびっくりした。雪の中で練習をした」といい、抽選会の日には、ぼた雪も経験した。初めての甲子園は初めての寒さでもあった。

湯口に1安打完封を喫する。

試合の結果は3対0。湯口は評判通りの凄い投手だった。「内地のチームと何度か対戦したけど、ケタ違いだったね、速さは」。九州大会や親善試合で県外のチームと何度か対戦し、実際にヒットを放ったこともある玉寄氏だが「湯口からは打てる気が全くしなかった。バットに当てるのが精一杯、やっぱナンバーワンは違うなと思った」。真和志打線は、湯口の前に手も足もでなかった。内野安打1本に封じられた。

強力打線を相手に短打5本に抑える

「打たれたのはシングルヒット5本。よく抑えきれたよ、自分でも終わってみたらビックリ」と振り返る又吉氏。試合前の練習が岐阜短大付属高と同じグランドだった。「打撃練習を見てびっくりした。ぼんぼん外野オーバーが来るしね。投げているバッティングピッチャーが僕より球が速いんだから」。これは10点以上取られるんじゃないかと思ったという。さらに球場に入ると「スタンドが大きいものだからグランドが小さく見えるんだよね。とにかく身長もでかいし、内角にでも投げたら、すぐ持っていかれるんじゃないかと思った」。打撃練習で打力も見せつけらており、それまでホームランを打たれたことはなかった又吉氏だが、本当にそんな気がしたという。「ああ自分に球だったらピンポン球みたいにスタンドまで持っていかれるんじゃないかという感じがあったよ」。野球をしてきて初めて内角に投げるのが怖いと思った。それでも開き直って、とにかく慎重に投げた。とても慎重に投げた。慎重になりすぎてファーボールは多かったものの得点を許さなかった。4回まで無失点に抑えた。5回にスクイズは阻止したものの味方にミスが出て2点を失った。終わってみれば、被安打5、失点3、自責点1。「レベルの低いところとレベルの高いところとの試合だったから。実際15対0でもおかしくないって感じだったので、あんな強豪とよく戦えたなと思う」。

優勝候補と対峙して

主将でエースで4番。チームの柱としてこの試合での重圧は並大抵ではなかったと思われる。沖縄のレベルが低かったというものの、いい試合をしたいという思いはあっただろう。1970年はちょうど大阪万博が開催された年。試合に負けた翌日、チームみんなが大阪万博の会場に出かけたが、玉寄氏は一人だけ宿舎の旅館に留まった。「疲れすぎていて、監督に行かないでいいですかと言って、一人だけ旅館に残っていた」という。「何でか分からないけど疲れていた。気を使いすぎたのか、精神的に疲れたのか強い相手とやるということで緊張していたのか」。試合翌日に訪れた極度の疲労感は、真っ向勝負ではかなわぬ優勝候補のの強力打線を相手に、神経を研ぎ澄まし投げ抜いた結果であろう。センバツ終了後に春の九州大会に出場した真和志高は、一回戦で都城工業と対戦し3対0で勝利する。12奪三振を奪った玉寄氏はセンバツで果たせなかった1勝を手にした。

1回戦(第42回選抜高等学校野球大会 1970年(昭和45年)出場26校)

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
岐阜短大付0 0 0 0 2 0 0 1 0 3
真和志0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
真和志 

 

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