沖縄水産が初の甲子園出場を果した 1984年の夏のクリーンアップ

宮城 昭人氏

2015-01-15

甲子園に春3回、夏9回の出場を数え、沖縄高校野球の歴史に輝かしい実績を残す沖縄水産。「沖水時代」と呼ばれる一時代を築き、その名を全国に轟かせた沖縄水産が初めて甲子園の土を踏んだのが1984年夏、そのときクリーンアップを打ちレフトを守ったのが宮城昭人氏。栽監督が広告問題で、高野連から1年間の謹慎処分を受けたため、代わりに指揮を執った神山監督のもと、沖縄水産は甲子園初出場を果した。

宮城 昭人氏

1966年生まれ。少年野球の久茂地KNで野球を始める。那覇中学のとき栽監督から声をかけられ沖縄水産へ入学。高校2年の新人戦までは投手も務めた。卒業後は社会人野球の三重県・サンジルシ醸造で4年間プレー。その後、看護学校へ入学し看護士の資格を得る。現在は沖縄第一病院で看護士を務める。

栽監督が1年間の謹慎処分に

新チームとして臨んだ秋季大会。沖縄水産は準決勝で宿敵興南と対戦した。当時の沖水と興南は2強と言われていた時代。練習試合も絶対にやらないほど過度のライバル意識を持っていた。試合は中盤までは同点の接戦だった。栽監督はベンチの前で円陣を組むと「お前らはよくやっている、あとは勝利の女神だけが結果を知っているから頑張ってやっとけって」とそう言われた。そして試合に勝った。「いつもガァーって感じで言っていましたから、こんなことも言うんだと思いました」。宮城氏が初めて見る栽監督の一面だった。しかし、宮城氏は高校時代にそのような栽監督を見ることは2度と訪れなかった。

興南を準決勝で破ったあと決勝も制し優勝した沖縄水産は九州大会出場を決めた。「九州大会へ出発する日の前日か前々日だったと思います。栽先生が練習後のミーティングで、家族が病気で九州へは行けないので指揮を神山先生に執ってもらうと話しました」。ところが、九州へ出発するため訪れた空港で手にした新聞には『栽監督、1年間の謹慎処分』の文字が。宮城氏たちは、そこで初めて本当のことを知った。

天国と地獄をみた九州大会

「九州ではベスト4に入りました。でもベスト4でコールド負け、補欠校にさえ選ばれませんでした」。九州大会では一回戦不戦勝のあと優勝候補の最右翼だった八幡大付属と対戦。6対0と快勝しベスト4に進出する。「一気に水産が優勝候補になって、皆浮かれてしまった」。宿舎にも取材がきた。「こんな経験ないから、ピッチャーとか球種やら決め球、配球など全部正直に答えてしまった」。今ほど情報収集が盛んでない時代、試合前に手の内をさらけ出した。都城と対戦した準決勝は決め球のシュートを狙い打たれ7対0の7回コールド負け。ベスト4に残りながら、センバツに選ばれたのは、準々決勝で都城と接戦を演じた佐賀商業だった。

準々決勝で敗退した春季大会

栽監督に誘われて沖縄水産に入ったのだが、もう最後の夏まで栽監督の指導を受けることはできなくなった。 「しかたがない、やるしかないと思う反面、不安もありました。どうなるのかなと」。それに追い討ちをかけるように、エース伊敷が九州大会で脇腹を疲労骨折。ケガが治っても元の球威に戻ることはなかった。そして迎えた春の県大会、沖縄水産はベスト8でサヨナラ負けを喫す。しかし、この敗戦が良い意味でチームに危機感を与えた。宮城氏自身も練習に臨む態度が全く変わったという。また、「統率力がすごかった」という宮良キャプテンが「絶対に神山先生を甲子園に連れて行こう」と部員を鼓舞、練習中もちょっとミスをするとマウンドへ集合をかけ注意するなど、強力なキャプテンシーで皆を引っ張った。そして夏に大会前には、ベンチ入りから外れた部員たちが「絶対に甲子園に連れていけよ」とアップにも参加せずにノックの準備をしたり、バッティングピッチャーの用意をしたりして積極的に裏方を買ってでてくれた。

興南を決勝で破り前年の借りを返す

予想通りに2強の対決となった夏の決勝戦。沖縄水産は4対1で興南を突き放し甲子園出場を決めた。 「興南に勝って甲子園に行くというのが一番の目標だったんですね」。優勝したあとみんな気が抜けていたという。 「完全燃焼というか、興南に勝つことが目標だったので、練習をしていても何か前までの練習の雰囲気でなくて、気抜けしたようなっていました」

一回戦、2本のヒットに盗塁も決めた

一回戦の対戦相手は同じく初出場で長野県代表の篠ノ井高校。この試合は終盤に得点を奪い4対1で勝利したものに12三振を奪われたという。「対戦前にスポーツ紙とかみたらピッチャーはCランクの評価でした。しかし実際を試合したら、ボールがとてものびていて。こんな球、沖縄で見たことがないと思って12三振しましたよ」。というものの宮城氏はこの試合で最初こそ三振を喫したものの2本のヒットを放ち盗塁も決めた。この試合では生まれて初めて照明の下での野球を経験した。「自分らの試合の途中から照明がついて、ウォーって感じでした」。第4試合目だったこの試合。前の試合が延長でだいぶ待たされたという。そのおかげで甲子園球場のナイターも経験することができた。試合開始前は観客とかを見て気持ちも高ぶったというが、いったんサイレンが鳴って集中してしまうと大丈夫だったといことで、思ったほど緊張しなかったという。ただこの試合、宮城氏は2度にわたりフェンスに激突した。

2度にわたりフェンス激突

「ラッキーゾーンが、まだあった頃で、グランドは奥武山より狭かった。ただ全体的なキャパ、スタンドの大きさとかで埋もれていくような感覚にはなりましたが」。一回戦、2度フェンスに激突した。「レフトでファウルを取りに行ったときに、無我夢中に追っていって、いけるかなとスライディングしていったらフェンスにぶつかっていました」。ラバーがあったのでケガはなかったというが、奥武山球場でやっている感覚でプレーしていてそうなったという。「普通に守っていても、振り向くと、わーすぐラッキゾーンだ、て感じでした」。

桑田、清原と並んで

当時、KKコンビと呼ばれたPL学園の桑田、清原は1学年下。偶然、開会式の入場行進待ちの列で隣に並んだという。 「桑田は、すごかったですね。背丈はいっしょくらいだったが、競輪選手みたいだと思って見てました。清原は整列しているときに顔一個出ていました」。そして、体格もさることながら、他のチームの選手に握手を求められても微動だしない姿勢が印象に残っているという。女の子のファンも「桑田君握手して、清原君握手して」と手を伸ばしてくるので、対応できない二人に代わって宮城氏が握手に応じたというエピソードも。 

「おきみず高校?」

後に全国に名を轟かせることになる沖縄水産だが、初出場のときにはほとんど知られていなかった。「初出場で全く知名度もなく、しかも帽子に漢字二文字で書いている高校はないですから、『おきみず高校ってどこやねん』ってしょっちゅう言われていました」。歩いていても、練習にいく先々でも、決まって『おきみず高校』と呼ばれた沖縄水産は、この年から5年連続で夏の甲子園に出場することになる。

1回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
沖縄水産1 0 0 0 0 0 1 2 0 4
篠ノ井0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
(沖) 城間盛 - 城間学
(篠) 小出 - 野崎
本塁打 : 諸喜田(沖)
三塁打 : 奥間(沖)
ニ塁打 : 城間学(沖)

2回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
鎮西0 0 0 1 0 0 0 1 0 2
沖縄水産0 0 0 0 0 1 0 0 0 1
(鎮) 松崎 - 山田
(沖) 城間盛 - 城間学
三塁打 : 宮平(沖)
ニ塁打 : 工藤、山田、丸田(鎮)

 

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