夏の選手権、2年連続準優勝を果した沖水の5番打者、

仲村雅仁

2015-05-15

一九九一年、夏の甲子園大会。大野倫投手(元巨人―ダイエー)を擁する沖縄水産は前年に続き、2年連続で準優勝という偉業を達成する。ヒジの故障で万全の投球ができない大野投手を打線が援護し、決勝まで上り詰めた。その打線で5番打者を務めたのが仲村氏。甲子園では毎試合ヒットを放ち、20打数10安打、打率5割と活躍した。

仲村雅仁

上田タイガース(上田小学校)に小学3年生の頃、入部。 6年生の時、転校にともないスカイファイターズ(壺屋小学校)へ。神原中では軟式野球部。 小学5年生から投手を務めるが、沖縄水産へ入学後は外野手へ転向。卒業後は沖縄国際大学へ進学、野球部に入部。現在は、高校、大学時代の同級生らで構成する軟式野球チーム「大知建設」に所属、成年の部で全国大会への出場を目指している。

一回戦突破が最初の目標

前の年、沖縄県勢で初めて甲子園の決勝に進出した沖縄水産は、この大会も注目を浴びる。

しかし、エースの大野は、チームメイトにも何も言わなかったが、ヒジを故障し本来の投球ができない状態だった。

「大野倫がヒジの調子も良くなかったので、監督さんに5点以上とらないと勝てないよ、打たないと勝てないよと言われていました」と振り返る仲村氏。

それでも前年の優勝校、「勝たないといけないというのもあったのですが、(沖縄水産は)甲子園では一回戦で負けたことがないので負けたくない、一回戦だけは勝ちたい。1勝することが目標だった」と話す。

しかし、大野が本来の投球ができない状況で、沖縄水産は、栽監督の言葉とおりに相手から点を奪い勝ち進む。

1回戦、南北海道代表の北照と対戦し4対3で勝利をあげると、2回戦の高知県代表・明徳義塾を6対5、3回戦の山口県代表・宇部商業を7対5と接戦で下し、準々決勝の福岡県代表・柳川にも6対4と勝利し、準決勝へ駒を進める。

「1勝できて良かったなということだったので、明徳とあたったときは負けるかなと思ったんですが勝って、さらに宇部商、柳川にも勝って。まじでこんなに勝っているけどみたいな感じでした」。

そして「準決勝の鹿児島実業も、秋の九州大会で対戦して負けているので、勝てるわけがないと思っていたんですが、勝ってしまって」。

沖縄水産は2年連続で決勝進出を決める。

不安が先行した決勝進出

「2年連続決勝進出が決まったとき、大変なことになったなと僕自身は思いました。勝って良かったのかなと、嬉しい反面、大丈夫かなという不安のほうは強かった感じがします」と話す仲村氏。

エースの大野は、はたから見ていてもヒジの状態が相当悪い様子が感じ取れた。

「ナインの前で全く痛がっているそぶりを見せなかったのですが、球威がなかったんですよ。

終盤くらいから捉えられる。毎試合そうだったんですが、終盤に追い上げられて、1点差、2点差で勝ってきていたんで。

準決勝も大野が結構打たれて追い上げられて、最後もワンアウト二、三塁まで追い詰められました」。

大野は、果たして翌日の決勝で投げられるのだろうか、大丈夫なのだろうかと仲村氏は思ったという。

決勝の相手の大阪桐蔭は、右サイドスローの和田、140キロ超右腕の背尾(元近鉄) の2枚看板を擁し、さらに荻原(元阪神) を中心に準決勝まで全て二桁安打という大会ナンバーワンの打撃力を持つ強力チーム。

大野の他にピッチャーもいない状態で、「何点取られるのだろうか。二人のピッチャーも良いし点数取れるかな、恥ずかしい試合にならないかな」と2年連続の決勝進出の喜びよりも不安が先に立った。

そして迎えた決勝、沖縄水産は、初回裏に大阪桐蔭の4番・萩原の本塁打で2点を先制されたものの、3回表に2死2塁から大野らの5連打と和田を攻め5点を奪い、6対2と逆転を演じる。

しかし、仲村氏の不安どおり大野のヒジ限界を超えていた。3回裏にも2点を奪われ、5回表には集中打を浴び6点を失ってしまう。沖縄水産は13対8で敗れる。

決勝戦終了後、大野は肘を疲労骨折した状態だったと判明する。「大野は本人は何も言わなかったので、僕達もただ痛いんだろうってぐらいにしか思ってなくて。帰ってきて折れていたと聞いて、凄いというか、よく投げていたなと驚きました」

影で支えてくれた同級生

大野が本来のピッチングができずに相手に得点を許す中、打線が点を取った。「みんな良く打っていたと思います。

バッティングの調子は結構良かった感じはしますね。ヒットも出て、点数もとっていたので」。

その活発な打線を影で支えたのが、ベンチ入りしていない3年生の同級生メンバーだった。

対戦相手の試合をビデオで一生懸命に見て、ピッチャーのくせや配球などのデータをとってミーティングで選手に伝えた。

「初球はだいたい真っ直ぐが多いよとか、追い込んだら変化球が多いとか、ミーティングで確認して試合に臨んでいたので、だから結構ヒットが出ていたんじゃないかと思います」と仲村氏。

「練習でもフリーバッティングのピッチャーをやってくれたり、守ってもらったりしてました。また、バッティングの調子が悪いときはアドバイスをくれたりして、激励されながら、頑張っていましたね。ありがたかったです」と、ベンチ入りできなかった同級生のチームメイトに感謝した。

緊張した開会式の入場行進

その年の甲子園の開会式の入場行進は、北から南の順に入場した。北北海道代表から始まって最後が沖縄県代表の沖縄水産だった。

その中でも、身長168センチの仲村氏はチームで1番身長が低かったので最後尾。全出場校の選手の中で、一番最後に入場した。

全体の最後の学校の最後の列なので、満員の観衆の視線を一身に浴びる位置だ。

「試合よりも開会式の入場行進が一番緊張しました。僕達沖縄は一番最後だったのですが、その中でも僕は一番小さかったので最後の最後から歩いていました。

一番後ろで、足が合うかとか、手と足がいっしょにならないかなとか。これだけが心配で一番緊張したのを覚えています」。

一回戦は、開会式の直後の第2試合だったが、入場行進が緊張しすぎたせいか、試合の方は全く緊張しなかったという。

「開会式が何事もなく無事終わってほっとして、それから試合に臨んだのが良かった(笑)」。

試合ではヒットも放った。

初めて受けた監督のノック

大会前の甲子園練習。小さい頃から目指して、行きたいなと思っていた甲子園に初めて足を踏み入れた。

初めて踏んだ甲子園の土は非常にさくさくした感じで柔らかくて驚いたという。

そして、初めて見る球場の中では、奥武山球場に比べものにならないほどに大きなバックスクリーンと、球場全体を囲うように高くそびえる観客席に圧倒された。

甲子園練習が始まりポジションにつくと全然イレギュラーしそうもない外野のきれいな芝生にも感激した。

そしてもう一つ驚いたのが、栽監督がノックバットを手にしたこと。

学校での普段の練習や試合前のシートノックもコーチがやっていて、仲村氏は入学以来、一度も監督からノックを受けたことがなかった。

91年は甲子園のラッキーゾーンが取り払われる前の最後の大会だった。その外野フェンスのクッションボールの確認を栽監督自らが打球を打って行なった。

監督がノックバットを手にしたのを見て「打てるのかな、大丈夫かなって思ったりしていた」という仲村氏。

当然ながら普通にノックの打球は外野フェンスを跳ね返った。

甲子園では優しくなると聞いていたのに・・・

普段は、選手から怖いと言われる栽監督も甲子園に来ると、人が変わったように優しくなり、選手も褒めてくれると言われていた。

それが、仲村氏たちが甲子園へ出た年は、そうではなかった。

「甲子園では選手を叱らないと聞いていましたが、僕達のときは叱られましたよ」。

一回戦の北照戦に勝ったあと宿舎に帰ったあとに、食事を目の前にして正座させられ1時間ほど説教されたという。

「4-0から追い上げられて4-3で勝った試合、監督さんからみて内容が悪かったんでしょうね」と仲村氏。

また、二回戦の抽選があった日にも練習中に「やる気がないなら、お前ら帰れ」と怒鳴られたという。

仲村氏の記憶に残るくらいなので、すごい剣幕だったに違いない。

仲村氏はそのとき、「聞いていた話では監督さんは優くなるはずなのに、何でかな。全然ちがうやしぇ」と一人で思っていたという。

小さな5番打者

ベンチ入りメンバーで一番身長が低い仲村氏だったが、甲子園でクリーンアップを打ち、毎試合ヒットの20打数10安打と活躍した。

当時のレギュラーのほとんどが栽監督に誘われて沖縄水産の門をくぐったメンバー。

その中で仲村氏は、たまたま小学校時代のコーチが栽監督と知り合いだったことで、そのコーチに勧められて沖縄水産に入学した。

入学前に、大野倫を筆頭に県内各地から身長も高く有望な選手が多く入学するとの情報は聞かされていた。

中学時代はエースを務めていた仲村氏に対し小学時代のコーチは「あちこちからいいピッチャーがお前たちのときは大野倫を筆頭に沖水に来るよ。

ピッチャーどころかレギュラーにもなれないかもしれないけど、沖水で3年間頑張ってみたら」と勧めたという。

ちょうどそのとき、仲村氏の小・中学校時代のひとつ年上の先輩も沖縄水産で頑張っていたので、先輩がいるから心強いし頑張れるかなと思いもあり、そして「中学校時代から有名な大野倫も来るし、勝って甲子園に出られるのじゃないか。

補欠でも、そこで3年間頑張れば、就職や進学に有利かも」と入学を決めたという。

そして、入学後は野手に転向、左利きの仲村氏は外野手でのポジション獲りを目指した。

そして上級生が引退し、新チームになるとレギュラーの座を獲得、打順も5番から7番を打つようになった。

そして甲子園では5番打者として大野の後を打った。

「初回のランナー二塁とかで、結構ランナーを返していました。大野倫がよく打っていたので、彼がタイムリーを打ったあとの2点目、3点目を打っていました。彼が先にランナーを返してくれるので、気楽に打席に立てていたのありますね(笑)」

いい高校野球生活だった

全国準優勝を果した沖縄水産。県大会では新人大会を除く、秋、春、夏と頂点に立ったが絶対的優位というわけではなかったという。

秋の決勝で戦った那覇商業の翁長、春の決勝の相手だった浦添商業の多良間、そして夏の決勝で対戦した豊見城南の玉城誠(現ホンダ熊本監督)など好投手も多く、さらに新人大会で唯一の黒星を喫した知念高など、力は拮抗していたという。

特に夏の県大会前に練習試合で那覇商業には3連敗、夏は厳しいのではないかとも言われたりしていた。

それだけに、夏の県予選の準決勝で那覇商業の翁長投手から打った、1対1から勝ち越しのタイムリーヒットが仲村氏の高校時代のもっとも印象に残るヒットだという。

「甲子園では、一回勝てばいいと思っていたのが、明徳にも勝って、四回、五回と勝ち、6試合もできた。

決勝は最初の打席でヒットを打てたのも良かったし、点数も取れて。結構点差は開いている感じだったんですが、良い試合でした。

自分としては大満足、いい高校野球生活だったなと思っています」と自身の高校野球を振り返った。

第73回全国高等学校野球選手権大会(1991年)

1回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
北照0 0 0 0 0 0 0 0 3 3
沖縄水産1 0 0 0 0 3 0 0 x 4

2回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
明徳義塾0 0 1 1 0 0 0 3 0 5
沖縄水産0 0 0 0 4 0 2 0 x 6

3回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
宇部商業0 0 0 0 0 2 2 1 0 5
沖縄水産2 0 0 4 0 0 0 1 x 7

準々決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
柳川0 0 0 0 0 3 1 0 0 4
沖縄水産0 2 0 2 0 2 0 0 x 6

準決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
沖縄水産3 0 0 1 1 2 0 0 0 7
鹿児島実0 0 2 0 0 0 1 3 0 6

決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
沖縄水産0 1 5 1 0 0 1 0 0 8
大阪桐蔭2 0 2 0 6 2 0 1 x 13
(沖) 大野-平野
(大) 和田、背尾-白石
本塁打 : 萩原(大)

 

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