沖縄尚学としては初めての甲子園となった 1992年夏の選手権に出場

宜保公夫氏

2015-10-15

1992年の夏、沖縄尚学が夏の甲子園の土を踏んだ。前身の沖縄高校がエース安仁屋宗八(広島―阪神)を擁して出場して以来30年ぶりの夏の甲子園、沖縄尚学に校名が変わってからは春夏を通じて初めての甲子園となった。後に春の選抜で全国制覇を2度達成する沖縄尚学が甲子園での第1歩を刻んだとき、宜保公夫氏は2番ショートで出場した。その年の夏の選手権は、星稜の松井秀喜が明徳義塾との試合で5打席連続敬遠され物議を醸すという事件もあった。

Profile

宜保公夫氏

読谷村出身。渡慶次小学校(渡慶次タイガース)で野球をはじめ、6年生のときは投手。読谷中学校では三塁手。
沖縄尚学では1年秋から二塁手でレギュラーとなり、2年秋にショートにコンバートされた。卒業後は九州東海大へ進むも、母親の介護のため2年で中退。
帰沖後は母親の介護に専念した後、那覇市の臨時職員となり那覇市水道局の軟式野球部で野球を再開。県民体育大会へも出場した。
現在は、読谷エルベス少年野球でコーチとして学童野球の関わっている。看護士。

開幕試合で優勝候補の桐蔭学園と対戦

「沖縄水産が夏の選手権2年連続準優勝した翌年の出場なんで、ほとんど誰も記憶になくてちょっと寂しいんですけど。この試合、本当にいい試合だったと思いますよ、自分で言うのも何ですけど(笑い)」と宜保氏が語るように、沖縄尚学の甲子園での第一戦は、開会式直後の開幕試合。

延長12回、3時間50分に及ぶ激闘だった。(ちなみに、この試合は甲子園歴代開幕戦最長試合)。

相手は、副島(元ヤクルト)、高橋由伸(巨人)などのタレントを揃えた優勝候補の神奈川県代表・桐蔭学園。当然、下馬評でも桐蔭有利。

しかしゲームの方は両者互角の好ゲーム。

沖縄尚学は、9回2死の土壇場で同点に追い付き延長12回サヨナラ勝ちを収めた。

「桐蔭とあたって、実は大差でやられるのかなって感じだったんです。だから、恥のない試合をやろうというぐらいの勢いですよほんとに。それでも、練習でやったことをやればどうにかなるだろうという気持ちはありました」。

沖縄尚学は1回表、高橋由伸にライトオーバーのタイムリー2塁打を打たれ、1点を先制される。しかし、その裏、すぐに同点に追い付く。

「追い付いた時点から、1点を取った時点で、もしかして行けるかもしれないと思い始めました。試合に入ってみたらけっこう手ごたえがあって、回を追うごとに自信につながっていきましたね。試合が進むにつれて、自分たちが変わっていったというゲームでもあったと思うんですよ」(宜保氏)。

1点をリードされた8回裏、9回裏に、2死からの連打や、タイムリーで桐蔭に追い付く粘りをみせ、試合を延長戦へと持ち込んだ。

そして、延長12回裏の沖縄尚学の攻撃。二死二塁の一打サヨナラの場面で桐蔭学園は、一番打者を敬遠し、2番の宜保氏との勝負を選ぶ。

実は延長10回裏にも同じシーンがあり、1番敬遠で宜保氏と勝負、そのとき宜保氏はフォアボールだった。

またしても、1番を避け宜保氏との勝負。

渡久地監督に「男の意地を見せて来い。2回目だよ。タッピラカセー」と檄を飛ばされ打席に。

マウンド上は高橋由伸。そして宜保氏はライト前にヒットを放つ。前進守備のライトからのバックホームで二塁走者は三塁を回りかけストップ。

しかし、ワンバウンドしたその送球を捕手が後逸するのを見てサヨナラのホームを踏んだ。「あとから聞いたら僕だけヒットがなかったようで。僕が打って全員安打達成」(宜保氏)。

「高橋は呆然としていて。負けるとはほとんど思っていなかったじゃないですか。取って取られて壮絶な試合でした。優勝候補だけあって振りが違いましたね。

そんなチームと当たって、試合できただけでも最高でしたね」と宜保氏は振り返った。

やっとつかんだ甲子園

当時のチームは、県内ではずっと優勝候補って言われ続けていたが、なかなか頂点に立つことが出来なかった。1つ上の先輩が5人しかおらず、メンバーはほとんど2年生からレギュラーを経験。

新チームになり、新人大会は那覇商業に負けて準優勝、最高潮の仕上がりで挑んだつもりだった秋季大会は、準決勝で読谷に日没7回コールド8対6という、きりの悪い負けを喫す。

さらに春季大会も決勝で沖縄水産に1対0で敗れた。秋の大会で敗れた読谷はそのまま県大会を制し、九州大会でもベスト4に勝ち進み、春の選抜出場を果たす。

読谷村出身の宜保氏にとっては、ほとんどが幼い頃からの知り合い。悔しさも募り、自分たちも甲子園に出るんだと一段と練習に励んだ。ときには、まわりのチームメイトにも叱咤の声を浴びせた。

そして、とうとう最後の夏、頂点に立つことができた。やっとつかんだ甲子園だった。

県内各地から誘われて入学してきたメンバーは、当初から鼻高々の選手が多く、個性も強かった。そんなメンバーが敗戦を重ねるうちに、皆で一つになって向かっていこうというチームに少しずつ変わっていった。

「そうだったから最後は取れたのかな」と宜保氏。

もう一つ大きかったのがキャプテンの存在。小柄でヒジに故障を持ち、公式戦に一度も出場したことのなかったキャプテンは、夏の予選を前にして、自らをベンチ枠から外して別の選手を入れてほしいと皆に申し出た。

俺は縁の下でバックアップするからと。人一倍チームのことを思う態度に、こいつがキャプテンだからこそチームがあるんだとメンバーの意識が変わった。

「お前じゃないとチームがまとまらない。キャプテン番号をつけてくれ」と夏に向けて気持ちが一つになったという。

あわただしかった開幕試合

「あのときは試合どころじゃないような感覚もありました。開会式もちゃんとやらないといけないし」そう話す宜保氏。

朝4時に起床。薄暗い中、5時から近くのグランドで練習。それから開会式に間に合わせ甲子園球場に移動。開会式は南からでトップ入場。

それでも優勝旗返還のため一人で来ていた大阪桐蔭の主将にお願いして、優勝旗を持たせてもらった。重かったのを覚えている。

そして開会式が終えるとすぐベンチに入ってウォーミンフアップして試合とあわただしかった。勝手も分からない状態で、わけも分からずに試合が始まった感じだったという。

「でも、あんがい冷静だったかもしれない。勝ち負けというより、この試合に集中することを考えていた」と宜保氏。甲子園練習のときに、すり鉢状の球場は空が狭く見え、内野フライを追いかけるときに感覚をつかむのが大変だったというが、本番はお客さんがいっぱいいて、反射することもなくとってもボールが見やすかったという。

2回戦の相手は、選抜ベスト8の三重。初回に2点を先制するも3回までに3対2と逆転された。その後は得点を与えなかったものの、沖縄尚学も得点圏へ走者を進めながら決定打が奪えない状態が続き、そのまま逃げ切られた。

「あのスライダーは初めて見た。普通のスライダーと全然違う。一回止まってみえる。結局これにやられましたね」と追加点を奪えぬまま涙を飲んだ。

「甲子園はいいところでしたよ。もう一回行きたいですね」と宜保氏。厳しい練習を重ねて甲子園を果たせたことは、社会人になり問題にぶつかったときに、自分を励ます糧となっているという。

第74回全国高校野球選手権大会

一回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
桐蔭学園1 0 0 1 0 0 1 0 1 0 0 0 4
沖縄尚学1 0 1 0 0 0 0 1 1 0 0 1x 5

二回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
沖縄尚学2 0 0 0 0 0 0 0 0 2
三重1 0 2 0 0 0 0 0 x 3

 

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