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山城 翼(沖縄大学)

2015-06-01

第93回九州地区大学野球選手権大会で、実に31年振りとなる決勝進出を果たした沖縄大学。その4試合全てに登板したエース山城翼が、その原動力となったのは周知の通りだろう。明治神宮大会出場まで、本当にあと僅か、と迫りながら悪夢の5失点を喫してしまったその悔しさと、本人にしか分からないあの舞台裏へ迫ってみた。

リーグ戦で学んだこと

山城翼 「昨年ウチは九州大会へ出場することは出来なかった。だからこそ、1位で通過してやろうとチームは結束していました。」

昨年の沖縄地区リーグ戦は春秋ともに沖縄国際大学(以下沖国大)と名桜大学の後塵を拝していた沖縄大学。気合を入れて臨んだという言葉通り、オープニング戦となった名桜大学との試合を2対0、次戦の沖国大との戦いを6対1と前年度の代表校を撃破。

山城翼も連続完投(名桜大戦では完封)したのだが、琉球大学との第1戦を落とし、チームに2敗目が灯るなど、道は険しく変化していった。

第3戦を残した沖国大戦と琉球大学戦を前にした沖縄大学は、沖国大戦で山城翼を投入。

1位でいくんだ!という決意の表れでもあったが、味方のミスが続き満塁と攻められると、「心のどこかで併殺が取れていたらなとは、正直思いました」と、山城翼に生まれた隙に沖国大打線が襲いかかり4失点を喫して敗れてしまった。

チームは最終戦となった琉球大学との戦いを制して2位を確保したものの、バックが居て初めて投げることが出来るのだから、と改めて気を引き締めるきっかけになった試合でもあった。

初戦の崇城大学戦

九州大会を前にしても、打線は中々上向きにならなかったが、ここまで来たら技術じゃない、メンタルだぞ!とそれぞれが声を掛けて第一戦に向かっていった。

初日の雨でスライド登板となった山城翼だったが、地元ということもあり、いつも通り午後の練習を経て翌日に備える余裕があった。

ビデオを見ながら、崇城大学の、2人の投手陣対策を考えていた打撃陣とは違い、山城翼は敢えてそのようなことはしなかった。

山城翼 「九州大会で優勝するなら4連戦。そんな短い期間で(どこが出てくるか分からない)相手を分析するのは厳しい。明治神宮大会へ行けば、それがより顕著になる。」

例えデータが完全に揃っていたとしても、そこだけに頭と心が支配されてしまうよりは、自分のピッチングを100%出せる状態にすることを望んだ山城翼。

ある打者がいて、コイツは要注意だぞと、必要以上に警戒するとボール先行となり苦しいピッチングになる可能性もある。

慎重に投げ続けていたが、三塁打を浴びてしまう。

山城翼 「ツーシームが浮いてしまった甘い球を三塁打にされた。その後抑えることで、逆に高めにさえ行かなければ怖くないなと確信したし、甘くならないように修正していけば良いなと。」

ピンチを抑えた山城翼は、その後は低めに決まる変化球で崇城大学の各打者に的を絞らせず1安打完封勝利を収めた。

第一工業大学戦

崇城大学戦を投げ終えた山城翼。

アイシングをしている彼の頭の中は、実は準決勝の登板のことだった。

山城翼 「(リーグ戦では第1、3試合の登板が多く)崇城大学戦が終わった後に修人、大丈夫か?明日は頼んだぞと。」

大会前に大城監督から4連投だぞ!と言われていたが、どこかで修人やその他の投手陣を挟むだろうなとも思っていた。

その日の夜のミーティングで「明日の先発は山城翼」と伝えられたときはビックリしたと言うが、すぐに明日も投げられるという嬉しさに変わった。

朝、北谷球場入りした山城翼。ランニング中は体の重さはなかったが、肩のハリを感じていた。

ブルペンでも、球を多く投げることはせず感覚を磨こうと準備していたところ、予期せぬ良い感覚が訪れる。

山城翼 「上半身に頼らず、下半身をより意識することで、ボールのキレが崇城大学戦よりも良かった。」

得てして投手は、調子が良いなと感じるほど上体に力が入ってしまい棒球となることがある。

ケガをした訳ではないが、功名と言うべきか。

強打の第一工業大学を最小失点で抑えるピッチングを見せた。

打線は平良亮太(第一工業大学)のチェンジアップに手こずっていたが、追い込まれた9回表にドラマが待っていた。

山城翼 「後輩たちが多いので、自分がナインを率先して九州大会は楽しもうと声掛けしてました。美崎が導火線となりワンアウト一・三塁。これは最低でも同点に追いつくなと。」

強気とプラスのイメージは大事だ。

リードされてはいたものの、ブルペンで9回裏に備えるエースの姿が、打線を奮起させる。

美崎と山口のヒットで同点のチャンスを得た沖縄大学。

ツーアウト後、亀川の強いバウンドがピッチャーの頭上を越える。

その瞬間、亀川の俊足を知っている沖縄大学ナインの全てが同点を確信した。そして絶好調の内間に逆転打が生まれた。

山城翼 「九州大会の決勝まで進めたポイントがあのイニングだった。」

絵に描いたような見事な逆転劇。

ナインひとりひとりの、翼の好投に絶対報いるぞという気持ちが嬉しかった。

マウンドに向かう背番号18は9回裏を僅か9球、三者凡退に斬り2年振りの準決勝進出を決めたのだった。

準決勝宮崎産業経営大学戦

山城翼 「二連投を終えて、いつもの整骨院でケアし、宿での大浴場で疲れを癒しでいる中で、ここまで来たら明日(の登板指名)もあるだろうなと。」

夜のミーティングで名前が告げられた山城翼。

翌日、連投のエースを楽にさせようと、この日の打線は序盤から繋がった。

山城翼 「内間が三塁打を放ってすぐに点を取ってくれたので、この試合はゲームの流れなどに気を遣わずに、打者に集中していけるなと。」

高校野球と大学野球の一番の違いはDH制度だ。

これにより、投手は打席に立つことなくピッチングに専念することが出来る。

とはいえやはり、試合の流れは気になるもの。

緊張感が高まる準決勝の舞台で、序盤に山城翼に与えた打線の援護は彼を奮い立たせ、8回まで相手ボードにゼロを並べる。が、9回に試練が待っていた。

山城翼 「美崎と内間の連続エラーが出て。きっと観客の方々も嫌な雰囲気になったと思います。そんな嫌な空気を振り払うには、それ以上の気持ちのこもったピッチングしかない。この大会で初めて、三振を狙いにいきました。」

沖国大戦の糧を思い出していた。

同じようなエラーで迎えたピンチ。

あのときは未熟な精神力から喫した失点。

だがこのときの山城翼は違った。確かに疲れはある。

マックスまで挙げることはかなわないけど、闘志のギアを一段階上げた。

1点は失ったものの、最小限に食い止める。

そして最後の打者の打球が自分の前に転がった。

打たせて取ることを真骨頂とする者が、ある意味一番嬉しいピッチャーゴロに斬りとり、自ら一塁へ転送してゲームセット。

31年間、閉ざされていた九州大会決勝の舞台へ、沖縄大学を導いた瞬間だった。

5失点の裏側

山城翼 「高校の時に、一年生中央大会と3年時の春と夏、3度の決勝を体験して全て勝利。

自分が持っている男だな、とは思ってませんが、決勝戦では投げ負けたことが無い。優勝して明治神宮へ行こうとチームメートに声を掛けました。」

雨で流れた月曜日の決勝戦。

糸満高校で甲子園出場を決めた同じセルラースタジアムでベンチも同じ三塁側。

ここまで来たらどんなゲンも担いで、とことん前向きになろうと決めた。

さらにここまでの3連勝はチームの雰囲気も変えていた。

負ける気がしない、しかもみんな浮わつくことなく落ち着いていると感じていた。

新垣太の序盤でのタイムリーと、8回に亀川のスクイズで2点のリードとなる。

試合を観戦していた殆どのファンの脳裏に、沖縄大学の九州大会初優勝が描かれていたことだろう。

しかし、野球は怖い。流れが急に西日本工業大学へと傾き、まさかの5失点。

あの連打は疲れからくる失投だったのだろうか。その真意を、山城翼が告白した。

山城翼 「逆に球の走りは、これまでの3試合と比べても決勝戦の方が良かった。でも前半の組み立て方が、その3試合と真逆だったのです。」

準決勝までの3試合、左打者に対する山城翼と新垣太のバッテリーは、内角を攻めるカットを使って外角のツーシームで打ち取ってきた。

西日本工業大学も左打者が多い。同じような攻めで間違いは無かったが、球のキレが予想以上に良かったからなのだろうか。

極端に言えば、外のツーシーム一辺倒で打ち取れているな、と感じてしまうほどであったのだ。

それは7回裏の西日本工業大学の左打者が、外ばかりじゃないか、と思い切って踏み込み、外の球に食らいつくシーンからも、逆に伺いしることが出来た。

山城翼 「外に絞ってきているなと、太一と大城監督と意見が一致。そこで内角を突いていかないといけないぞと話してて味方が1点を取ってくれた。

そしてあの裏のマウンド。簡単にワンアウトを取ったけど、代打にライト前ヒットを打たれ、(二盗後)次打者にレフト線へタイムリーを許してしまう。

頭の中では、この1点までは良いと分かってはいた。そして打席に左打者が立つ。内を使おうと頭の中では分かっていた。分かっていたはずだったのに。」

新垣太が出したサインは外よりの球。もちろん首を振って「内を使うんだろ!」と返事をすることは可能だ。

だが、山城翼が首を振ることは無かった。 想像以上のプレッシャーが二人を支配してしまい、相手の流れのままで投げ急いでしまった。

早くもう一つのアウトを取ろう。その気持ちが強ければ強いほど、そのアウト一つが遠くに感じるのも野球のも怖さ。

さらに、序盤、中盤と相手打線を制してきた外のツーシームの残像に、どこか心の中で依存していた。

山城翼 「あの8回は、それまで上手く行ってたボールと配球に頼ってて。でもそれは実はワンパターンだった。」

外の配球で最後までいける!バッテリーを組んで今年で7年目になる山城翼と新垣太には、口にしなくても心では互いにそう思っていた。

でもその頼りは、まやかしの、逃げの頼りだったと山城翼は振り返った。

あとアウト4つ取れば優勝。それが叶わなかった現実の厳しさを知らされた決勝戦。

でもこの敗戦がまた一つ、山城翼を成長させたのだ。

山城翼 「自分のような打たせて取るタイプは、内角を使えないと生き残れない。しかも、最初から内を突いておけば、ピンチが訪れた場面でも、また内を突くことが出来る。でもその逆だと、イザというときに内を突くことは難しくなってくる。」

ヤクルトスワローズで長年活躍した古田敦也氏の言葉。内を突いて成功したイメージを、試合の流れがそこまで表れない序盤で掴んでおけば。組み立てが甘かったと悔やんだ。

山城翼 「ずっと太一と長くやってきて、ここまで来れたのに、最後にあのような隙というか、弱いところが出た。そんな甘い考えでは上にはいけないよと教えてもらったのでしょう。」

もしあのまま勝っていたら、序盤のイメージが良ければいいほど、ここぞという場面でもそれに逃げてしまうということを知らずに、明治神宮で敗れて帰ってきていたかも知れない。

山城翼 「人生と同じで、野球も結果が出るまで分からない。でも、その流れを良くするために駆け引きをし、勝敗を決める野球が僕は大好き。

大学野球最後の最後になる秋、またそれだけでなく社会人野球など、好きな野球の次のステップに進むためにも、今は勉強しておきなさいと言われてるのかなと。」

悔しい気持ちは誰よりも一番持っているのがマウンドを死守する男。

だが、その悔しさを表に出さず、内に秘めて燃やし続けるのが山城翼だ。最後の秋、どんなピンチにも動じず、どんな場面でも逃げないピッチングで、今度こそ悲願の九州の王座へ、そして明治神宮への切符を手に入れてみせる。

チバリヨー!翼!

Profile

山城翼 沖縄大学

1994年1月4日糸満市生まれ。
米須小学校の3年生からピッチャーとして活躍。
和中学校を経て糸満高校を初の甲子園へと導いた。
公務員を目指していたが、甲子園出場で家族や親類、友達などが応援してくれる姿を見て、上でも続けようと決意。
恩師上原忠先生からの「太一と二人で沖縄から全国を狙ってみないか」との提案に心動かされ沖縄大学へ。
「裏方をしっかりしてくれるマネージャーに常に声掛けしたり、試合に出られない後輩たちとトレーニングやキャッチボールを一緒にし、自分の持っているものを伝授している」と、良き兄貴分としてナインから慕われている。22歳。

 

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