江上光治

江上光治

甲子園で夏春連覇を達成した池田(徳島)の3番打者、主将。(第2回)

2016-03-15

先月号に引き続き、82年夏、83年春に甲子園連覇を遂げた「やまびこ打線」池田高校で3番打者を務めた江上光治さんのレジェンドオブ甲子園。夏の甲子園で優勝した池田は、翌年の春のセンバツでも優勝、夏春連覇を達成する。そして、その夏の甲子園。準決勝でPL学園に敗れ、史上初となる夏春夏3連覇はならなかったものの、伝説のチームとして今も甲子園史に輝いている。

Profile

江上光治氏

1965年4月3日、徳島県生まれ。
池田2年春高校から主力として活躍し、2年夏から3季連続甲子園出場、3大会で3番を打った。3年次には主将としてチームをけん引し、83年春の優勝に導いた。早稲田大学でも主将を務めた。卒業後は社会人野球の日本生命に入社、都市対抗、日本選手権で優勝も経験。引退後はマネジャー、コーチを歴任。現在は日本生命保険相互会社浦添営業部の営業部長を務める。
 

1983年春の甲子園も優勝候補に

高校野球の長い歴史の中で甲子園夏春連覇を達成した学校は1931(昭6)の広島商(広島)、1938(昭13)の中京商(愛知)、1961(昭36)の法政二(神奈川)、1983(昭58)の池田(徳島)の4校しかない。

1982年夏から始まった池田高校の爆発的快進撃は日本中に衝撃を与えた。夏の甲子園優勝から、新チームになり江上さんは主将に選ばれた。

高校野球は、夏が終わると3年生が引退し、チームが弱体化することも多い。

しかし、江上さん、水野が残った池田は注目され続けた。そして、秋季四国大会を勝ち抜いて優勝、翌春のセンバツに選ばれた。

「春も優勝候補でしたね。僕らの年代のメンバーは、みんな打つんですよ。僕のカゲが消えるくらい。そのときも3番でええんかなって思っていましたよね。僕より打つやついっぱいおるけど、どうしよう。そんな感じですよ」。やまびこ打線は健在だった。

県大会も四国大会もほとんど圧勝だった。

「前の年のチームが県大会、ひいひい言って勝っていったのに対して、名前勝ちしているというのもあったのでしょうね、優勝した池田だ、やまびこ打線の池田だと。別にやまびこ打線でもないんですけど。そういうイメージもあって、勝手に向こうが崩れていったようなとこもあったと思います」。

売り物の打撃も参加校中で№1のチーム打率.386と、猛威を保っていた。とくに江上、水野、吉田、上原、高橋と続く3~7番の長打力には目を見張るものがあった。

春の甲子園展望号の特集雑誌に載った秋季大会打撃成績50位のランキングに池田の選手が多く入った。

対戦した投手のレベルがそれぞれ違うので一概に判断できないが、江上さんは5割2分で全出場選手中2位にランクされた。

「50傑に、こんなに入っているチームなかったんで、池田の選手がとにかく大量に入っているとこれはもう春も優勝じゃないかと、あのやまびこ打線は健在だ。そんな感じで優勝候補にはなっていましたね」。

センバツ、前評判通りに勝ち進む

1983年春、左腕エース仲田幸を中心に、俊足を揃えシャープな打撃力を持った興南も優勝候補の一角に上げられていた。その中で、全国一の破壊力、得点力を誇った池田は優勝候補の本命と称されていた。

「一回戦はちょっと緊張しましたね」。一回戦の相手は、東京ナンバー1で関東では断トツに強いと言われていた帝京高校だったからだ。抽選会には、キャプテンだった江上さんが出席。

池田が先にクジを引き、後から帝京が引いて両校の対戦が決まった。

「池田が優勝候補みたいな感じになっていたので、あー池田と当たってしまったみたいな雰囲気になるかなと思ったら、帝京の選手はうちを引き当てて、なんか『よっしゃー』みたいな感じなんですよ」。

それを見た江上さんは「どれだけの実力を持っているんだ、精神的なものも自分たちより数段強いぞ。相手が全くびびっていない、これはヤバいんじゃないか」と逆にびびった。

しかし、いざ試合になると池田は初回から連打が出て4点を先制するスタート。そのまま攻め続け、結局11対0で勝利した。

この勝利、前評判の高かった帝京を大差で下したことから、池田に対する周りの評価はさらに高まった。

「池田ただもんじゃないぞ、と皆そう見るような感じになったんで。全てがうちにとっていい流れになった。向かうとところ敵なしでどんどん勝っていった感じですね」。池田は順調に勝ち進む。

準決勝で苦戦も、夏春連覇の偉業を達成。

この選抜大会、準々決勝までは大勝で勝ち進んだが、準決勝の明徳戦で明徳のエース山本投手の前に苦戦した。

明徳は、それまでにも何回か対戦し勝ったり負けたりという相手。

山本投手は球速以上にキレがあり、カーブも鋭く、池田打線もなかなか打てていなかった。「準決勝であたったときに、皆で言ってましたね、山本聡だけはまずいぞと。

どっちか絞っていったほうがいいんちゃうかとか。でもカーブは誰も打ってないし、みたいな。初めて試合前にそういう話をしましたね」。

そして始まった試合は、序盤にスクイズで明徳が1点をあげると、その後は両者譲らずに1対0のまま8回裏の池田の攻撃を迎えた。

ここまで蔦監督の采配が全部裏目に出て、池田は点が取れずにいた。攻撃に入る前に蔦監督が珍しく円陣に入ってきた。

「もうサイン出せへんからな、全部失敗したから、もうお前らにまかせるわ。好きなように打ってこい」そう言い放った。

すると、池田打線に変化が起こった。

先頭打者がいきなり初球を叩くと、相手野手のエラーを呼び一塁に生きる。

続く打者は2球目を強振、打球は外野の間を抜ける三塁打となり、一塁走者が生還し同点に追い付いた。

さらに次の打者も積極的に初球から打ちにいき、ライト前タイムリーヒットを放った。たった4球での逆転劇だった。

「1点勝負だと監督は思っていますから、それまで、バントをしたり、スクイズのタイミングを計ったり、エンドランをかけたり、やったことないことを甲子園でやらすんでね。

たぶん僕らもリズムが狂っていたんですよ。最後は、もうええよ好きにやれって言われたとたんに4球で逆転したんで、やっぱりこれやなって」。

その試合まで大差での勝利を収めてきたことから、優勝は池田に間違いないと思っていたスタンドは、明徳に苦戦して負けそうな池田を見て静まりかえっていた。

その静けさから一転、同点になったとたんに球場に歓声が巻き起こった。

「ウワーって球場中がなったときに、僕ら好かれているって思いましたね。皆が、うちが勝つことを望んでいるのだなと。それもまたパワーになりましたね」。

続く決勝は、水野投手が横浜商打線を2安打に封じ、3対0の完封勝利でセンバツ初優勝を遂げた。この優勝で、夏春連覇の偉業を達成。日本中に池田フィーバーが巻き起こった。

史上初の夏春夏連覇に期待が集まる

1983年夏、池田は徳島大会を勝ち抜いて三季連続甲子園出場を果たした。

前人未到の夏春夏連覇に手が届きかけた池田人気は凄まじかった。勝つのが当然という雰囲気。

池田は、1回戦太田工,2回戦高鍋,3回戦で広島商を破り順調に勝ち進む。

そして準々決勝で、打倒池田の一番手と言われていた名門中京と対戦した。事実上の決勝戦とも言われた試合だった。

水野と野中(元中日)の投げ合いになった試合は大熱戦となり、1−1の同点のまま9回の攻防へ突入した。

そして9回表に池田が本塁打などで2点を奪い、3−1で中京を振り切った。

決勝ホームランを放ったのは七番打者・高橋勝也。高橋は悪球打ちが得意で、顔の高さに来るボールは、ほとんどヒットにしていた。

一方で変化球には弱かった。

この打席でもカーブを2球空振りしフルカウントとなっていた。

池田のベンチでも勝負球にはカーブが来ると予想し、打てないだろうと思っていた。

ところが、投じられた球はストレート。しかも高めに外れるボール球。高橋選手の好きなコース。

高橋選手が顔の高さのボール球を大根切りではじき返すと、打球はレフトスタンドに突き刺さったのだ。

「カーブが来なかった驚き、そのストレートがツースリーにも関わらずストライクにならなかった驚き、そのボールが彼の一番好きところに来た驚き、こんな偶然が重なるのかみたいな。

ホームランを打った喜びよりも、流れが何でこういうふうになるのかという驚きで皆喜んでいましたね。こんな奇跡があるのみたいな」。高橋選手は、ドカベンの岩木のように、顔のあたりのコースに来たらかなりの確率で良い当たりを打っていたからだ。

事実上の決勝戦と言われた中京との試合。池田の勝利を見届けた高校野球ファンの多くは、これで池田の夏春夏連覇は間違いないと思った。

準決勝、PL学園にまさかの敗退

5万の大観衆で埋め尽くされた甲子園球場。その観衆のほとんどは、池田が決勝へ勝ち進むと思っていた。

準決勝のPL学園は、桑田、清原の1年生がKKコンビと話題となっていたが、下馬評は決して高くなかった。

そのことからも、準々決勝で強敵中京を激戦の末に破った池田ナインに油断が生じていたのは否めない。

「(組み合わせ)抽選を引いて帰っていくと水野にいつも怒られていたんですよ。またこんなところ引いてくるのか、なんでもっと楽なところ引けないんだと。

中京の野中とも、あいつだけは最後まで当たりたくないと言っていたのに、ベスト8で早々と引いてしまいガンガンに怒られて。

でもPLを引いた時だけは水野が褒めてきたんですよ、初めてのこと。最後の最後で一番いいクジ引いたみたいなこと言っていました。

でもそこから油断が始まっていましたね」。PL学園に対して強敵との意識はなかったが、一年生だった清原のバッターとしての才能は江上さんも認めていた。

水野も清原だけには打たせないと言った。

その公約通り、水野は清原から4三振を奪った。しかし、ノーマークの桑田に先制2ランを浴び、勢いづかせてしまった。水野は3本のホームランを打たれ、結局7対0で完敗を喫した。

史上初の夏春夏の連覇の夢は寸前で断たれた。

「実力的には、うちのほうがたぶん上だったと思うのですが、油断ですね。次の決勝どっちやろなみたいな、そんなことを話していたので、眼中になかったPLに足元をすくわれてしまった」。

江上さんは、試合後のインタビューで、今何をしたいか質問され「もう一回PLと試合がしたい。絶対100%負けません」と答えた。

「本腰でいきます最初から。今日、今回だけは、ほんまに油断しましたみたいな気持ちでね。もう一回PLとやらしてください。

勝負が10回できるとしたら、9回全部勝ちますから。

うちのほうが強いってもう一回認め直して下さいっていう気持ちだったんですね」。

その油断とおごり。PLが6対0と大量リーすると、池田が勝利するものと思っていた球場も異様な空気に包まれる。

それでも江上さんは、6回終わって6対0とリードされていても、まだ勝てるって思っていた。

「今から思ったらアホみたいでしょ。疑いもなく勝てると思たんですよ。7回に1点取られたときに、8.9の2イニングで7点は難しいちゃうかな、初めてそこで負けるかもしれないと思った、遅いですよね。悔やんでもしょうがないですが、今でも悔しいですね」。

桑田、清原のPLに敗れて

「でも桑田、清原に負けて良かったですよ」。

桑田、清原がプロ野球でも長く続けていたので、夏が来るたびに、桑田、清原が甲子園の思い出を取材されると必ず江上さんたちのところにも取材が来た。

「いつまでも池田の話題がテレビとかに出て来る、だからこそ未だに皆覚えていてくれる。

僕らが卒業してぴたっとその話題が取り上げられなくなっていたら、たぶん忘れる方もいっぱいいたと思うんですが、あの後、20年以上もメディアに取り上げられている」と最後の夏が未だに忘れられずにいるのも桑田、清原のおかげだという。

とはいうものの桑田、清原を抜きにしても当時の池田は高校野球を変えたと言われた伝説のチーム。

人気ぶりもすごく、山間の池田高校に大勢の取材陣やファンが押し寄せるという現象が起こった。

やまびこ打線の池田は、高校野球の歴史に大きく名を刻み、今なお高校野球の変遷を語る上で必ず登場してくる、まさに伝説のチームだ。

敗れて悔しかった蔦監督

決勝で敗れ、旅館に帰ると、ユニホームのまま大広間に集まれと集合がかかった。

「いつも、3年生の最後のゲームが終わった後は、ねぎらいの言葉を蔦先生がかけてくれるんです。あーねぎらいタイムだ、ここまで3連覇も目指してやってきたし、相当ねぎらっていただけるかなと思ったら、最後の最後に烈火のごとく怒られましたね。

お前らが気合いの入っていない練習しているからじゃあみたいな。

えっ、練習に気合いが入っていなかったんだったらね、その時に言ってくれたらいいのに、今ここで言うのって感じですよね。それぐらい悔しかったんでしょうね、蔦先生も」。

蔦監督は、マスコミに対しては、「3連覇をやりきって、その注目を集めるのも良しなんですけど、この子たちのためには、負けたほうが良かったんでしょうね。水野がボコボコに打たれて負けるってほうが、彼らの人生のためにはいいんでしょうね」と語っていたが、本当は悔しくてたまらなかった。

シートノックでスタンドに打ち込む蔦監督

攻めダルマと称された蔦監督だが、江上さんいわく「たぶん蔦先生というのは、もともと気が小さい人なんですよ。スクイズのサインをびびって出せない。だから、たまたま打力をつけたことで、自分が楽な戦法をとったんですね。

バントとか、そういう監督の采配に関わることからは離れて、打てーみたいな。それが一つのパフォーマンスになって、注目を集めていることをいいことに、うちはバントなんかしませんよと」。

蔦監督は、甲子園での試合中は、毎回、イニングの途中に、ベンチの裏に行ってタバコを吸うのが常だったが、その手が震えていた。

豪放なイメージの蔦監督も、選手たちの目には、甲子園の大舞台で緊張しまくっているように映った。

「甲子園ではサインも間違えまくりでしたね。横で見てても、これ何のサインを出しているのかなって。最後、口で言っていましたからね。次、走れとか、行け言うてんやろとか。蔦監督は隠せない人なんですね。」

蔦監督は、その緊張をほぐすために、甲子園で試合前のシートノックの一振り目はスタンドに入れていた。「面白がってね。入れへんかったら何本でも打ちますから。カーンと打って喜ぶんですよ。まだわしも入るのう言うて。先生、生徒にノック打ってみてくださいみたいな」(笑)。

「性格が運命を呼ぶ」

蔦監督は「性格が運命を呼ぶ」とよく口にしていた。

「蔦先生の言う性格というのは、優しいとかそういうことではなくて、正しいお性根ですね。正しい性根を持たないものは運も来ない、人生失敗するぞということをよく言っていました」。

掃除をみんなでするときは掃除をする、草抜きするときはみんなでする。ここまで走り切れといったら走り切る。

「そういうことが出来ないようなやつが、勝負で勝てるか。運がどんどん逃げていく」。

蔦監督の口癖だった。蔦監督自身が、プロ野球選手になったものの1年で解雇された。

プロ野球の世界で生きていけるのは、ただ者じゃないと無理。

みんな普通に就職して、まっとうな社会生活を送れるものをちゃんと身に付けなければいけないという考え方だった。

「生活態度に厳しかったですね。野球部の選手の前に池高の生徒やぞ。池高の生徒という立場をまっとうできんものは

野球部におる資格はないと常に言っていました」。宿題などの提出物や、掃除などの当たり前の学校生活をさぼると練習に参加させてもらえなかった。

「失敗をすることが悪い事じゃないということもよく言っていましたね」。失敗しない人生なんてない。失敗をしたあとに、どうやって、その失敗をしないようにするか、どうやって失敗から立ち上がるかとかいうのが大事。それをこの野球で学ぶんだと蔦監督は生徒に話した。

江上さんのプロ入りに反対だった蔦監督

雑誌で1980年代の甲子園球児ベストナインにも選出されたほどの江上さんだったので、プロ野球の球団も当然ドラフト候補にあげる。

しかし蔦監督は「江上お前、お前はアマチュアの世界で生きていけよ」と言った。

「努力で勝負強くなっていたりしましたけど、センスという面では、プロに行ってレギュラーをもぎ取っていくようなものはこいつにはないというのを蔦先生は分かっていたので、卒業するときにも水野はプロに行かしてもいいと思うけど、お前は行ったらアカンと言われました」。

さらに蔦監督は、卒業後も江上さんに釘を刺す。

「早稲田のキャプテンに選ばれて報告に言ったとき、頑張ったなって言われると思ったら、『江上、キャプテンになったからいうて野球がうまいわけじゃないぞ。勘違いしてプロとか行くなよって』。プロ野球はよほどの選手じゃないと生きて行けないところだから、自分を見失うなよと僕は特に常に言われました」。

甲子園が教えてくれた、疑いなく信じて努力すれば、不可能も可能に

2年生の夏から3大会連続で甲子園に出場。3年生の夏の準決勝でPL学園に敗れるまで、甲子園15連勝。連続した大会での連勝記録として未だ上をいくものはない。

「楽しかったですね。負けないんですもの。負けるイメージなんか無かったですよね、全然」。そう話した江上さんだが、初めて出場した2年生の夏の甲子園は違った。「一番最初に甲子園に出たときは嬉しかったですね。

信じられなかったですね。甲子園はプロに行くような選手が行くところと思っていたので、まさかそこにレギュラーとして出られるということ自体が。ほんとに嬉しかった」。

そして、初めて足を踏み入れた甲子園で全国制覇。

「優勝するとも思っていなかったです。一つぐらいは勝ちたいな、ヒット1本ぐらいは打ちたいなぐらいの気持ちでした」。

ところが、ヒット1本どころか、25打数10安打と打率4割の成績を残す。

そして、翌年の春の甲子園では5割を打った。

「夏は悪かったです。3割打てなかったです。いい当たりは出るんですが、全部正面とか、ファインプレーに阻まれて、ほんとにイライラしましたね。なんでヒットにならへんのやろと」。

しかし、甲子園での最後の試合、PL学園戦では、桑田から2本のヒットを放った。

かつてこれほど人気を得た高校があったであろうかと言われる池田で主将としてチームをまとめ、まさにレジェンドの活躍を残した江上さんが、甲子園で得たものは「できると疑いなく信じること」。

自分の可能性を疑いなく信じて努力すれば、すべて叶ういうとぐらいに思えるようになった。2度の全国制覇を果たし、「自分の可能性として不可能がなくなるイメージを持てた。高校生のときに、そういうことに気づけたというのはすごく幸せですよね。僕の中で努力すれば叶うと疑いなく信じることがすごく大事であると今でも思っています」。

招待試合で沖縄を訪れた池田

春のセンバツで優勝した池田は、一度、沖縄を訪れている。

招待試合で招かれ興南と対戦した。

当時の興南はプロ入りした左腕の仲田幸二、仲田秀司のバッテリーを中心に100m11秒台の選手を揃え、沖縄水産の栽監督をして、「前代未聞の強さだ」と言わしめるほどのチームだった。

その試合で興南が池田に勝利する。

招待試合といえ、池田に新チーム結成以来、初めての完封負けを与えた仲田幸二が評判にななった。その30年前に訪れた地で2年間の勤務を終え、江上さんは3月末に沖縄を離れる。

第64回全国高校野球選手権大会(1982年)一回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 0 0 2 3 0 0 0 0 5
静岡0 0 1 0 0 0 0 0 1 2

第64回全国高校野球選手権大会(1982年)二回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 1 1 0 0 1 1 0 0 4
日大二0 0 0 0 0 0 0 0 1 1

第64回全国高校野球選手権大会(1982年)三回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 1 1 2 0 0 1 0 0 5
都城1 0 0 0 0 0 2 0 0 3

第64回全国高校野球選手権大会(1982年)準々決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
早稲田実0 0 0 0 0 2 0 0 0 2
池田2 3 0 0 0 2 0 7 x 14

第64回全国高校野球選手権大会(1982年)準決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 2 0 0 0 2 0 0 0 4
東洋大姫路2 0 0 0 0 0 0 1 0 3

第64回全国高校野球選手権大会(1982年)決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田6 0 0 0 1 5 0 0 0 12
広島商0 0 1 0 0 1 0 0 0 2

第55回選抜高校野球大会(1983年)一回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田4 0 4 2 0 0 0 1 0 11
帝京0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

第55回選抜高校野球大会(1983年)二回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 0 0 0 0 4 6 0 0 10
岐阜第一0 0 0 0 0 0 1 0 0 1

第55回選抜高校野球大会(1983年)準々決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
大社0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
池田2 2 0 0 2 0 0 2 x 8

第55回選抜高校野球大会(1983年)準決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
明徳0 1 0 0 0 0 0 0 0 1
池田0 0 0 0 0 0 0 2 x 2

第55回選抜高校野球大会(1983年)決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 0 2 0 0 0 0 1 0 3
横浜商0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

第65回全国高校野球選手権大会(1983年)一回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
太田工1 0 0 0 0 0 0 0 0 1
池田1 1 2 2 0 2 0 0 x 8

第65回全国高校野球選手権大会(1983年)二回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田2 0 0 1 0 5 4 0 0 12
高鍋0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

第65回全国高校野球選手権大会(1983年)三回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 1 0 3 0 0 2 0 0 6
広島商0 0 0 0 2 0 0 1 0 3

第65回全国高校野球選手権大会(1983年)準々決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 1 0 0 0 0 0 0 2 3
中京0 0 0 0 1 0 0 0 0 1

第65回全国高校野球選手権大会(1983年)準決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
PL学園0 4 1 1 0 0 1 0 x 7
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