江上光治

江上光治

甲子園で夏春連覇を達成した池田(徳島)の3番打者、主将。(第1回)

2016-02-15

1980年代の甲子園を彩った伝説のチームの一つが、82年夏、83年春に連覇を遂げた池田高校。「やまびこ打線」と称された、打って打って打ちまくる圧倒的な打撃力と攻めダルマ・蔦監督のキャラクターもあり、高校野球史上屈指の人気校だった。江上光治さんは、その池田高校で2年生の夏から3季連続甲子園で3番にすわり、3年次には主将を務めた。高校野球を変えたともいわれた池田高校のレジェンドを2回にわたってお届けする。

Profile

江上光治氏

1965年4月3日、徳島県生まれ。
池田2年春高校から主力として活躍し、2年夏から3季連続甲子園出場、3大会で3番を打った。3年次には主将としてチームをけん引し、83年春の優勝に導いた。早稲田大学でも主将を務めた。卒業後は社会人野球の日本生命に入社、都市対抗、日本選手権で優勝も経験。引退後はマネジャー、コーチを歴任。現在は日本生命保険相互会社浦添営業部の営業部長を務める。
 

緊張で震えた甲子園の初打席

1982年夏の甲子園、2年生の江上さんは、背番号7をつけ3番ライトで出場した。一回戦の対戦相手は大久保投手(元南海)を擁する静岡。この甲子園で最初の試合、江上さんは緊張しまくった。

「最初の2打席目までは、打席で膝の震えが止めようにも止まらなくて。恥ずかしかったですね。キャッチャーと審判に振るえているのをメッチャ見られている気がして。それぐらい震えていました。どんなしてステップしていいか分からないくらい。そんな感じで緊張してプレーがスタートしたのを覚えています」。それでも、江上さんは三打席目に甲子園初ヒットとなる三塁打を放つ活躍をみせる。

シートノックのときのキャッチボールでは、スタンドが大きすぎて相手が小さく見えて、距離感がつかめなかったのを覚えている。暴投して後ろの選手にけがさせたらどうしようかとびびりながら投げていた。「外野なので守備とかあまり気にしてなかったですけど、試合前に変な不安を感じていましたね」。そこから江上さんの甲子園はスタート。それから3季連続出場し、16試合、甲子園のグランドに立つことになる。

「やまびこ打線」の誕生

当時の池田はエースの畠山(元南海-横浜)が四国の怪物と言われ、東の早実、西の池田と優勝候補の一角にあげられていた。しかし、打つという印象はまだついていなかった。静岡(静岡)との1回戦は5得点、日大二高(西東京)との2回戦は4得点、都城(宮崎)との3回戦は5得点と、決して圧倒した内容ではなかった。それが、準々決勝の早稲田実業戦の試合を境に『やまびこ打線』と呼ばれるようになる。「そのときにバカ打ちしたのが、たぶんやまびこ打線のもとになった」。

早稲田実業の荒木大輔からホームラン

準々決勝の相手は、荒木大輔(元・ヤクルト)を擁する早実。1年生の夏に準優勝投手となって以来5季連続出場の荒木が3年生となり優勝を狙う強豪だった。荒木の人気も絶大だった。「あのヒーロー荒木さんだ」と思った。「僕がヒーロー荒木さんと1対1で勝負していいんですかみたいな感じ」と最初は緊張した。

しかし緊張とは裏腹に、江上さんは強烈な先制パンチを荒木投手に見舞う。1回裏一死一塁、3番2年生の江上さんは、荒木投手の投じたインコースへのカーブをすくい上げてライトへ先制の2ランホームラン。いきなり観衆の度肝を抜いた。これをきっかけに池田打線が爆発。2回裏にも4点を追加。終わってみれば、3本塁打を含む毎回・全員の20安打を早実の2投手に浴びせ、14対2の大差で早実を破った。

「皆がバンバン点を取って、打っていくごとに、いくらでも打てる感じになっていて。あとは、荒木さんも投げやりな感じになっていました」。昨年の2月、キャンプの取材で沖縄に来ていた荒木大輔さんが、江上さんの職場を訪ねてきて、話す機会があった。

「そのときも言っていましたよ、もう嫌だったと。最後の最後がこのゲームかよと思いながら投げていて、途中で早く終わってほしかったらしいですよ」。この試合で同じ2年生レギュラーの水野(元巨人)も荒木投手からバックスクリーンへホームランを放った。水野はさらに代わった投手から満塁ホームランも打った。池田の2年生コンビが注目の的となった。

「やまびこ打線」??

「そのゲームが一番注目を集めていたゲームで、衝撃的だったんでしょうね。周りの人もあの荒木がこんなに打たれるのかみたいな、なんかヒットが止まらなかったですね」。翌朝の新聞に「やまびこ打線」の名前が躍った。1本ヒットが出るとやまびこのようにヒットが響いて連発するという意味があったと思われる。

しかし、それを見た江上さんは「やまびこ打線かよって。かっこ悪と思いましたね。あの山の中の学校だし黒潮ではないけど、でももっと他にあるだろって(笑い)」さらに「皆さん聞きなれているんで普通に感じるかもしれないけど、僕ら最初に聞いたときは恥ずかしかったですね」と続けた。

どこまでも田舎者扱いされているようで、ダサいなと思い笑えなかった。誰かにお願いして、変えてくれと言いたくなるような気分だった。そんな江上さんの意思とは関係なく「やまびこ打線」フィーバーが始まった。「その大会は6試合やって、大勝したのは2試合だけなんですよ。荒木さんのゲームと決勝戦だけですね。でも、このポイントのゲームで大勝しているので、何かすごく打つようなイメージになったんでしょうね。印象度の問題ですよね」。

決勝で広島商業に大勝し初優勝

準決勝は東洋大姫路に4対3と接戦の末、勝利し決勝は広島商戦。

「運命だなと思いましたね。振って振ってバントはいらんわって野球をやってきたチームと伝統の広商野球との決勝戦というのがね。それまで高校野球といえば広商野球。送りバントやスクイズ、盗塁、エンドランを駆使しながら1点をもぎとって、守り抜いて勝つ。練習も守備の練習や走塁の練習をいっぱいして、打撃はどっちかといえばバントを重視するイメージ。しかし、僕らの守備の練習といえば、バッティングしながら生きた球を受けているんですが、ノックらしいノックはちょっとしかない。キャッチボールもしないんですよ。

伝統の勝ちになるのか新しいスタイルの野球が勝っていくのか、そういう決勝だなと思いながら試合に臨みました。でもどっちが勝つかと思ったら、うちが勝つだろうなと思いましたね。今のうちの感じだと守ってばかりでは勝たれへんでって。だから、最初から有利な感じで試合に入っていった気はします」。

池田は、初回表二死から、3番江上さんがヒットで出塁すると、4番畠山、5番水野のも続き、四球を挟んでさらに3連打と続き、一挙に6点を奪った。

「初回で6点とって、勝ったなって雰囲気になっていましたね、相手は打たないので。競って勝つみたいなとこがあるので。終ったねって感じで、余裕しゃくしゃくでした」。池田は、6回表にも4番畠山の2ランを含む7連打で5点奪う猛攻。バントと機動力野球で久しく高校野球のお手本と言われた広島商を、12対2と力でねじ伏せた。

高校野球の革命ともいわれた池田の優勝だった。恐るべき猛打を高校野球ファンに印象づけての優勝だった。この大会で池田は全6試合で2桁安打を記録。1大会7本塁打、最多安打85本、最多塁打121と当時の大会記録をすべて塗り替えた。(現在の記録は平成12年・智弁和歌山の11本塁打、100安打、157塁打)。江上さんも大会を通じて打率4割を残した。

中学時代には蔦監督から声がかからず

1年生の夏からベンチ入りし、2年生の春に8番レフトでレギュラー入り、2年の夏には3番打者として甲子園優勝に貢献した江上さん。甲子園で活躍した江上さんと水野の2年生コンビは一躍注目を集めるようになった。

「でも僕は、正直言って水野のようにセンスがあった選手ではなかったので、池田高校にも呼ばれていません。自分で志願して補欠でもいいから入れてくれみたいな感じで入っていたので、水野と並べられること自体がむずがゆいというか。だからちょっと不思議な感じにはなりましたね」。

江上さんは、中学3年の夏は県大会で優勝、四国大会も優勝し、全国大会への出場を果たした。チームメイトのうち投手と3番打者の2人が蔦監督から声がかかった。他にも4人が鳴門高校から声がかかったが、7番打者だった江上さんには、どの高校からも声がかからなかった。それでも、レギュラーにならなくてもいいからと池田高校へ入学したのだった。だから、本人も周りも、まさか池田でクリーンアップを担い甲子園で活躍する選手になるとは夢にも思っていなかった。

「今でも中学時代の友人と飲むと『お前が甲子園で活躍して優勝するとはな』と、やっぱり言われますよ。こいつとこいつ(誘われて池田に入ったエースとセカンド)がレギュラーになったのは分かる、でもお前がなと」江上さんは笑いながら話した。

入学初日の練習でバットに当たる

レギュラーになれるつもりで入ったわけではなかったが、初日の練習でたまたまバットに当たった。「それで、右の水野と左の江上みたいになったんですよ、初日の練習で」。

池田高校では、新入生は練習初日に135キロのカーブマシンを打たされる。江上さんは、みんながつまった打球を打つのをみながら「マシンだから同じタイミングで来るから、タイミングだけ計っていたら、ちゃんと打てるかもしれない」と思った。

なるべく順番が後になるようにして、ずっとタイミングを叩き込んだ。そして、叩き込んだリズムで打ったらガンガン当たった。初日の練習で蔦監督に「お前飛ぶなあ」と気に入ってもらった。あくる日の西条高校との練習試合に水野と二人だけ同行させてもらう。水野は先発して投げ6回まで0点に抑えた。

「こいつやっぱりすごいなと」と思った。一方の江上さん、相手が左ピッチャーだったので、左打ちの自分の出番はないなと思っていると代打に行けと言われた。「どうせ打てないだろうけど、初球から3球連続振ろう」と決めて入ると初球がうまく当たってセンター前ヒット。その試合帰りに水野と江上さんのところに監督が寄って来て、「二日連続で結果を出せるのは、今までそうおらんかったから、お前らベンチに入れる」と二人にベンチ入りを宣言した。「水野は本物だと思うけど。俺は違いますよ、監督、あとでがっかりしますよ」そんな感覚でその話を聞いていた。

3年生のキャプテンについて素振りを始める

江上さんは、自分は水野みたいなセンスはないと思っていた。「第一印象は成功したが、第2印象以降はやばいぞ。せっかくチャンスを掴んでいるのに、このまま手放すのイヤだ、うまくなりたい」と思った。しかし、どう努力したらいいか分からなかった。

そんなとき、野球部寮の江上さんの部屋から中庭の電気が決まって点くことに気づいた。見に行くと、3年生のキャプテンが素振りを始めている、「さすがにキャプテンで4番やなあ」と思いながら4,5日が過ぎた。「あれ、俺うまくなりたいと思っているのに、グランドの練習しかしていない」。

はっと気づき、キャプテンに付いて素振りをしようと思った。池田は、フレンドリーなチームだったので、1年生の江上さんが、3年生のキャプテンに声をかけるのも抵抗がなかった。「こんなの長いうちに入らなへんよ、もっと振らんとアカンのだけどな。毎日振ることが大事やから」などと言われながら、付いて素振りを始めた。

「キャプテンが庭に出ていったら僕も庭に出ていって。キャプテンが振り終わるまでは僕も振り終わらないと決めて。30分で終るときもあれば、一時間以上やるときもあって。そこで伸びましたね、ずいぶん」。

部員、全員が庭に出てくるように

江上さんが、キャプテンについて素振りをするようになってしばらくすると、他の1年生も庭に出てバットを振るようなった。そして、1年生が全員素振りを始めるようになると、今度は2年生、3年生も加わった。いつの間にか、寮に帰ったら寝るまでのあいだ、勉強の時間以外は中庭や路地裏に出て、みんなでバットを振っていると現象になっていった。

「みんなが振っているあの光景というのは、なかなかないだろうなと思った。誰かに強制されているわけでもなく、みんなが自分の意思で、自分でバットを持ってきて。8割がたスリッパで振っていましたけどね(笑)」。またそれは、ガチガチの素振りではなく、ときには石の上に腰を下ろして、野球談議や、女の子の話、将来のことなど、言葉を交わした。

「コミュニケーションがものすごくとれていた時代ですよね。いろんな意味であの素振りがあったからこそ、あの池田高校は作られていったような気はしますね。ただウエートトレーニングをしたからということだけじゃないんですね」。

急造の左打ちが甲子園で活躍

甲子園で左打席から快打を連発した江上さん。しかし、左打ちになったのは、中学3年生に上がった頃からだった。春の大会の後、郡部の中学校6校が集まって、元阪神監督の吉田義男氏の指導を受ける野球教室があった。そこで中学時代の監督が「こいつ体はデカいんですが全然打てないんですよ、ちょっとみてやってください。」と吉田氏にアドバイスを求めた。

すると吉田氏は、いとも簡単に「この子右手が強すぎるから、左に変えたらどうですか」と言った。「左へ?。右利きが左に変える、そんな話聞いたことがない」。当時は、右投げ左打ちのプロ野球選手は阪神の掛布くらい。足の速い選手がスイッチヒッターに転向するくらいだった。

「中学生の俺に世の中一般でやっていないこと、そんな高度なことを勧めるなんて、なんちゅうおっさんや」と思い、真剣に受け止めなかった。しかし、翌日、監督から「今日からお前、左でいけ」と言われた。王選手に憧れていたこともあり、遊びで一本足打法をやっていたので左で振れないことはなかった。

「左で行けと言われて、どうせ右でも打てへんし、ええわ左で行こうと割り切って練習するようになった」。そして、左打ちになった最初の試合の一打席目にライトオーバーのランニングホームランを打った。「それでもう固定ですね。右は考えるなと」。でも、中学校のときはそんなにヒットを打った記憶がない。そんな江上さんが、打撃を見込まれて高校1年生の夏からベンチ入りすることになった。

2年生の春にレギュラーの座に

「1年の秋ぐらいからは、代打でけっこう使ってもらって、こんなにヒットが出るんだろうと思うくらい、ほとんどヒットを打ちましたね」。3年生が引退したあとの秋季大会、江上さんは代打として結果を残す。 そして翌年の春季県大会でレギュラー番号をもらう。外野手に蔦監督の目に適う選手が一枚足りなかったことから内野手だった江上さんに白羽の矢が当たった。「大会前に背番号が配られるときに、いきなり7番をくれたんですね。えっ、僕、外野ですか」。

外野手の経験がない江上さんは驚いた。練習終了間際に4,5本外野ノックを受けると蔦監督が「普通のフライは捕れるやろ」と聞いた。「たぶん捕れると思います」。そして外野のレギュラーとして出場した春の県大会。池田は決勝まで進み、江上さんがサヨナラヒットを放ち優勝した。徳島商業との決勝、延長に入り走者三塁の場面で江上さんに打席がまわってきた。

インハイにきたボールぎみのカーブを強引に打つと、つまった打球がレフト前に落ちた。蔦監督は地元池田町の出身だが高校は徳島商業。プロ野球を1年で退団して戻ってきたときに、徳島商業の監督になることを望んだ。

しかし、どうしても徳商の監督をやらせてもらえずに、池田に行かされた。徳商には個人的な恨みのようなものがあり、ライバル視していた。だが、そのライバルになかなか勝てずに甲子園に出られなかった。そんな相手に、しかも好投手から江上さんがサヨナラヒットを放ち優勝した。蔦監督の江上さんに対する好印象が残った。

「周りのみんなも言いますね。あのヒットでお前はレギュラーに固定したと」。春の大会は、ずっとレギュラーで出ていたものの、控えには江上さんより打撃のいい先輩や、もっとパワーのある選手、センスのある人、小技の得意な選手などが揃っていた。

「なぜ僕がレギュラーなのかと思いました。春の大会は8番バッターで、とりあえずお前を使ってみるという感じだったのが、勝負どころでヒットを打ったという、勝負強さみたいなところを気に入られたんじゃないかと思いますね」。春の大会以降、2年生になった江上さんは練習試合で3番も打つようになる。

そして、夏の大会で3番に固定される。「この時も、僕3番でいいんかなと思いました。そして水野が4番。3番、4番が2年生でどうするみたいな、負けたら俺らのせいやでって感じがあったんです」。

しかし、そんな不安をよそに江上さんは夏の予選で活躍する。江上さんが3番に抜擢されたのは、別の理由もあった。その夏の甲子園で「恐怖の9番打者」とマスコミに謳(うた)われた選手がいた。本来は、その選手が3番を打っていたのだが、態度が蔦監督の逆鱗に触れ、大会前に9番に降格させられた。

「中学の先輩で、プレーで頭の上がらない人だったので、あの人が9番で僕が3番なんかなあと思いながらいました」。そのような巡り合わせもあり、クリーンアップを打つようになった江上さんは甲子園で脚光を浴びるようになる。

筋力トレーニングを取り入れる

当時、高校野球に革命を起こしたと言われた池田野球。ウェイト等で選手のパワーを鍛えることで、初めて金属バットの優位性を世に示したと言われている。

「そのことに蔦先生が取り組み始めたのは、僕が1年生の冬なんですよ。秋の大会に負けて、春のセンバツがなくなったという状態になったときに、どうにかせにゃあかんと前から提唱を受けていた話に乗っかっていった。ウエートトレーニングって言葉もろくになかった頃ですから、単に基礎筋力アップみたいな感じですね」。

以前から蔦監督は、保健体育の先生にトレーニングの必要性を説かれていた。その先生に毎日1時間だけ時間をやるからとトレーニングを任せた。

そこから筋力トレーニングンが毎日の練習の中に取り入れられた。「やったら、春になったらびっくりするぐらい打球が飛んでいたので、これは正解やなと蔦先生もご満悦でしたね」。

コーチは、レスリングが専門の先生。レスリングで国体にも出場し、日本代表の選考まで上った人。その先生が考案したトレーニング方法は、マシンを使用するものでなく、タイヤやハードルを使ったり、自分の体重を利用したトレーニングだった。タイヤにロープをつけてパイプに結び、それを巻き上げて降ろす動作を繰り返して前腕の筋肉をつけ指の握力をつけるトレーニングや、腹筋、背筋からのダッシュ、いろんな体制からのダッシュなど体をコントロールする能力をあげると同時に筋力をつけていく、そんなトレーニングだった。

また、動きをよくするためには、ジャンプを連続で飛ぶような足の使い方を身に付ける必要があると陸上のハードルを持ってきて左右にジグザクに飛ぶトレーニングもした。「ものすごく理に適っていたと思いますよ」。

蔦監督は、とにかく効率よくやらないと嫌な人

蔦監督はとにかく効率よくやらないと嫌な人だったと江上さんはいう。

「練習もキャッチボールが無いというのはキャッチボールは無駄だと思っているんですね。お前ら散々中学校のとき投げてきているだろキャッチボールはいらんよな、そんな感じなんです」。

グランドに出るとすぐにトスバッティング、みんなが集まったら一周だけランニングしてフリーバッティングに入った。フリーバッティングが終わると十数人が3、4人づつ各塁についてのケースバッティング。

ホームにいるバッターが、走者一塁での送りバント、走者一塁でのエンドラン、走者二塁での送りバント、走者二塁でヒット狙い、走者三塁でスクイズ、そして最後は犠牲フライを打って終り。

バントで送られた走者が次の塁で順番を待つ。そうしてローテーションを回す。守備側も全ケースを体に叩き込む練習。マシーンを使うので、一人6球で終る。

失敗したら2球までOK、3回目はなし。最大でも12球しか使わない練習。「これが、わりとさっささっさ回っていって守備の練習にもなる。あとでいろんな練習を見たけど、こういう練習をしているところはなかったので、理にかなった効率的な練習だったのだなと後ですごく思いましたね」。

効率良くやらないと嫌な人だった蔦監督は、練習自体も4時間ぐらい。3時過ぎからせいぜい7時過ぎまで。場合によっては6時半くらいに終わった。ベースランニングもなかった。「同じ中学校の仲間で鳴門商業にいったやつは100塁打とノック永遠とか言っていました。ノックは2時間ぐらい普通だと。まっじ、うち15分くらいやで、現場のノックに毛がはえたくらいのやつや。池田は楽でええなと思っていました」

(次号に続く)

第64回全国高校野球選手権大会(1982年)一回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 0 0 2 3 0 0 0 0 5
静岡0 0 1 0 0 0 0 0 1 2

第64回全国高校野球選手権大会(1982年)二回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 1 1 0 0 1 1 0 0 4
日大二0 0 0 0 0 0 0 0 1 1

第64回全国高校野球選手権大会(1982年)三回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 1 1 2 0 0 1 0 0 5
都城1 0 0 0 0 0 2 0 0 3

第64回全国高校野球選手権大会(1982年)準々決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
早稲田実0 0 0 0 0 2 0 0 0 2
池田2 3 0 0 0 2 0 7 x 14

第64回全国高校野球選手権大会(1982年)準決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 2 0 0 0 2 0 0 0 4
東洋大姫路2 0 0 0 0 0 0 1 0 3

第64回全国高校野球選手権大会(1982年)決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田6 0 0 0 1 5 0 0 0 12
広島商0 0 1 0 0 1 0 0 0 2

第55回選抜高校野球大会(1983年)一回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田4 0 4 2 0 0 0 1 0 11
帝京0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

第55回選抜高校野球大会(1983年)二回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 0 0 0 0 4 6 0 0 10
岐阜第一0 0 0 0 0 0 1 0 0 1

第55回選抜高校野球大会(1983年)準々決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
大社0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
池田2 2 0 0 2 0 0 2 x 8

第55回選抜高校野球大会(1983年)準決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
明徳0 1 0 0 0 0 0 0 0 1
池田0 0 0 0 0 0 0 2 x 2

第55回選抜高校野球大会(1983年)決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 0 2 0 0 0 0 1 0 3
横浜商0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

第65回全国高校野球選手権大会(1983年)一回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
太田工1 0 0 0 0 0 0 0 0 1
池田1 1 2 2 0 2 0 0 x 8

第65回全国高校野球選手権大会(1983年)二回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田2 0 0 1 0 5 4 0 0 12
高鍋0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

第65回全国高校野球選手権大会(1983年)三回戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 1 0 3 0 0 2 0 0 6
広島商0 0 0 0 2 0 0 1 0 3

第65回全国高校野球選手権大会(1983年)準々決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 1 0 0 0 0 0 0 2 3
中京0 0 0 0 1 0 0 0 0 1

第65回全国高校野球選手権大会(1983年)準決勝

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
池田0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
PL学園0 4 1 1 0 0 1 0 x 7
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