日隈ジュリアス

日隈ジュリアス

未完の大器ジュリアス!いざ、プロの世界へ!

2016-01-15

アメリカ人の父と日本人である母との間に生まれたジュリアス。アメリカ同時多発テロ事件の悲劇の中で父と離れ離れになったが、2015年に連絡が取れ、その年のドラフト会議で指名されるなど、笑顔あふれる年となった。「お父さん、お母さん。僕を産んでくれてありがとう。」と、指名後すぐに両親への感謝を述べた、心優しき野球選手に、小学校時代の野球チームの監督だった砂川正美氏を交え、話を聞いた。

はじめは遊びの延長

當山ヤクルトへの入団おめでとうございます。改めて今の心境をお聞かせ下さい。

日隈 1日、1日、プロ野球選手になったんだなと実感しています。甘えていては通用しない世界ですので、よりいっそう気を引き締めています。」

當山ジュリアス君が野球を始めたきっかけはどのようなものだったのでしょう。

日隈 大阪の小学校から浜川小学校に来たのが3年生のとき。でもプロになりたいなという気持ちではなくて、子供の遊び感覚の中で浜川ジャイアンツに入りました。

當山 そのときには砂川さんは既に浜川ジャイアンツにおられた。そのときのジュリアス君の印象はどのように映りましたか?―

砂川 最初は普通の小学生。でも成長していくに連れて、大きく化けていくのではないかなと感じていました。

日隈 最初は遊びの延長だった野球が、砂川さんに出会って野球の楽しさと厳しさを教わって。思えばその頃から、プロになれたらいいなと思っていたかなと。

砂川 どちらかというと優しくて控え目な性格でしたから、君は特別な存在なんだよと伝えて。いつも二番煎じみたく、僕は後でいいよとしてて。もっと自分に自信を持って欲しくて、そう伝えてましたね。

日隈 覚えてます。

砂川さんの言葉を受けて順調に成長していったジュリアス。6年生になると投手兼内野手として浜川ジャイアンツの中心選手となり、県大会へ出場した。だが夏休みが終わる頃、ジュリアスは沖縄の地を一旦離れてしまう。

日隈 大阪にいるおばあちゃんの容体が悪くなって、少しでも側に居てあげようと離れました。

ここにもジュリアスの優しい性格が垣間見える。家族の、孫の顔がおばあちゃんを元気にし、幸いにも体調は戻ってくれた。そこでジュリアスも再び沖縄に帰郷。桑江中学校で與那原大剛(巨人)らと一緒になるが、彼らが桑江中学校軟式野球部に進んだのに対し、ジュリアスは硬式野球チームの大矢ベースボールクラブで、野球の腕を磨くことを選ぶ。

誰にも甘えないと、あえて高校中央を選んだ

當山 大矢ベースボールクラブを選んだきっかけは?

日隈 尊敬する砂川修(沖縄尚学−駒澤大)さんがいたことが一番大きくて。ついていけば間違いはないなと。

砂川 中学の野球部も北谷ボーイズもある選択肢の中で、彼が大矢ベースボールクラブを選んでくれたことは嬉しかったですね。小学校だけの関係で終わりたくないですし、息子と一緒にプレーしてくれることで、間近で彼の成長も見ることが出来ましたから。

當山 砂川修先輩は、日隈ジュリアス選手にとってどのような存在でしたか?―

日隈 小学校のときから上手くて。僕とは次元が違うところにいるなと。大矢ベースボールクラブでも、少しでも僕が上手くなって足を引っ張らず一緒にプレーしたいなと思うような方です。

當山 そんなジュリアス君が中学を終えて次の進学先に選んだのが、砂川修のいる沖縄尚学高校でもなく、與那原大剛らのいる普天間高校でもない。高知県の高知中央高校。

日隈 砂川さんもおっしゃってましたが、人の次でいいなと思うような性格がまだ残っていたので、親元を離れて誰も頼ることのない場所に身を置きたいなと。最初は不安もあり、寂しさもあったのですが、たくさんの人に支えられて助けられた。人と人との思い遣りを学びました。

その頃には夢はプロと決めていたジュリアスだが、それを確実に決めたのは以外と遅く3年生の夏の選手権大会前。やはり春季県大会で名門明徳義塾高校を破り優勝したことが、自身の背中を押すひとつの機会になったのだろう。

2015年高知県高校野球春季大会決勝戦

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
明徳義塾0 0 0 2 1 0 4 0 0 7
高知中央(初優勝)0 4 2 0 0 1 2 0 x 9
(明) 中野、岡田、国光−古川
(高) 日隈、金城、日隈−伊沢
本塁打 : 古川(明)日隈(高)

當山 甲子園を目指した最後の夏は残念ながらベスト8で大粒の涙を流す。『ジュリー泣くな!今度はプロで晴らせ!』と、ナインが声を掛ける。そしてプロ志望届を提出。そのときの気持ちはどうでしたか?

日隈 甲子園で活躍していた選手たちと比べ僕には実績がない。正直、指名されるのだろうかという不安の中にいましたが、例え指名されなくて笑われるようなことになっても、胸だけは張っておこうと心に決めていました。

それだけに指名されたときは嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。ちょうど時を同じくして、普天間高校で指名待ちをしていた與那原大剛も全く同じ心境だった。同期でライバルでもある與那原大剛は、彼にとってどのような存在なのだろうか。

日隈 小学校からライバルですが、良い友達。お互いプロでも切磋琢磨していきたいです。

當山 セールスポイントは?

日隈 ストレートでどんどん押していくのが自分のスタイル。それをプロでも生かしていきたいです。

當山 目標とする選手、ヤクルトスワローズの印象は?

日隈 目標はダルビッシュ有さん。少しでも近づけるように、ダルビッシュさんの良いところを取り入れていけたらなと思います。ヤクルトはずっと自分を見てくれていた心配りがある球団。活躍して恩返ししたいです。

當山 砂川さんから彼に贈る言葉があれば。

砂川 彼が言ったことをそのまま実践して欲しいことと、今日のこの激励会で彼が笑顔で子供たちにサインをしていたように、応援してくれる方々を大事にする姿勢を忘れないで欲しい。もちろん彼は、プロで活躍するようになったからといってファンを大事にしなくなるような選手ではないことも知ってます。

當山 最後にジュリアス君から沖縄のファン、そして子供たちへ向けてメッセージをお願いします。―

日隈 僕は最初から野球が上手かったわけではありません。そんな自分がプロになれた。いま少年野球で頑張っている子供たちも絶対に諦めず、夢に向かって頑張って欲しいなと思います。

この日の激励会に集まってくれた北谷町の少年野球チームの子供たちから、ジュリアスと大剛に花束が手渡された。どの子供たちの口からも「プロ野球選手になりたいです。」との言葉が発せられた。

沖縄県、そして県出身者がプロ野球ドラフト指名に掛からなかった年もある中で、北谷町で育った2人の高校生がプロとして同時に歩むことは、僕たち大人にとっても励みになるし、子供たちにとっても、大きな夢に向かって頑張れば、諦めなければ現実になるんだとの勇気を与えたことだろう。

即プロで通用するには、まだまだ遠いジュリアスだろうが、その踊るようなストレートを受けた大剛の女房役である渡名喜くんも驚きの顔を隠せないほどであった。まさに未完の大器。その魅惑のサウスポーが、神宮のマウンドで躍動することを願って止まない。

ちばりよー!日隈ジュリアス!

日隈ジュリアス

最速145Kmのストレートとスライダー、チェンジアップを武器に高知中央高校3年の春の決勝戦で自ら本塁打を放つなど活躍し県大会優勝。
最後の夏は準々決勝で敗れたが、潜在能力の高さがヤクルトスワローズのスカウトを惹きつけて2015年ドラフト会議にて4位指名。
背番号48、登録名をジュリアスとすることで仮契約を済ませた。184Cm77Kg。
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