喜屋武幸文 (79歳) 弁ケ岳ファイターズ監督

2015-10-15

首里の弁ケ岳ファイターズを率いる喜屋武幸文さんは昭和11年生まれの79歳。自らが立ち上げたチームで、夏の暑い日も冬の寒い日もグランドに立ち子供たちを見守り続け42年。チームを巣立った部員の数は400名を越える。

子供の可能性は無限

「できないと思う子供もさせたら出来ますよ。子供たちは外面だけでは分からない。一生懸命やる子供たちはやっぱり成長します」と話す喜屋武さん。

ある年の低学年の子供たちは、体力的にもひ弱で、キャッチボールができない子ばかりだった。その子たちを、一人一人マンツーマンで教えながら、チームとしてまとめていくと、なんと低学年の部で優勝を果たした。

「首里で優勝したもんだから、那覇ブロックに行って、一回戦だろうなと思っていたら、あれよあれよという間に優勝して。監督、コーチみんな泣いてしまったことがありました」。

長い指導経験を持つ喜屋武さんだが、このときは改めて子供たちと一生懸命向き合う大切さを感じさせられたという。このメンバーは、高学年に上がるとみるみる強くなって九州大会への出場も果たした。

思考錯誤のスタート

弁ケ岳ファイターズは42年前に誕生した。当時、小学校の役員や、弁ケ岳自治会長を務めていた喜屋武さん。自宅近くの首里高石嶺球場のグランドで野球に興じる子供たちがいて、まわりからの後押しもあり、自治会として野球チームを立ち上げた。

とはいえ終戦間もない時代に小学校、中学校時代を過ごした喜屋武さんは、米軍払い下げのグローブでキャッチボールして遊んだ程度。高校入学後に野球を始める友人たちもいたが、喜屋武さんは陸上部に所属した。

野球に関しては、まったくの素人だった喜屋武さんだったが、やるなら強いチームをつくろうと、子供たちに教えるためにいろいろと野球について勉強した。

野球の参考書を20冊ほど買い集めたり、いろいろなプロの選手の話などをノートに書いて頭に入れながら、試行錯誤しつつ子供たちの指導にあたった。

そして、チーム結成から3年目に地域の大会で初めて優勝する。それからチームはどんどん勝てるようになっていったという。

これまでに積み上げてきた優勝の数は、高学年と低学年を合わせて70回以上、準優勝が35、6回。「決勝戦というのを100回以上経験しているわけなんです」。

大きな大会も勝てるようになり、南部交流大会や那覇市長杯、九州大会などの頂点にも立った。

中学、高校と野球を続けてもらう

喜屋武さんの指導方針は「少年野球で終わらさない」。

「うちは厳しくやらないですよ。ある程度まかせて、悪いときに注意するんですよ。今のやり方、間違えているよ。こうだからこうだよって教えて。基本的なことは徹底的にやっていますけど、あまりスパルタとかやらない。子供たちがやりたいなという気持ちにさせるんですよ。あんまりやりすぎると、途中で野球を辞めてしまう。うちの場合は、どんどん上に行って野球を続けている」と喜屋武さん。

「試合もね、できるだけ控えにならないように子供たちも多く出して使うようにやっている」という。

また、中学、高校でプレーすることを考えてポジションもあまり固定せずに、複数のポジションをこなせるように教えている。守備練習でも、同じポジションに何名か入れて練習をする。「だから皆、3つぐらいのポジションはできている」という。

そんな喜屋武さんだから、OBたちの活躍に触れることが一番嬉しい。

浦添商業が甲子園に出場したうち、2回は弁ケ岳ファイターズのOBが主将を務めた。早稲田大学へ進んだOBもいる。その子がセカンドの守備固めで出場しているのをテレビで観る機会があった。

「そういうのをみると、長いことやっていても良かったんだなって思いますね」。

今年の中体連ではOBたちが石嶺中学で那覇地区制覇を果たし県大会へ出場した。県大会へ応援に行った喜屋武さんのもとにOBたちが駆け寄り「ありがとうございます」と言ってくれたという嬉しい出来事もあった。

「うちはね、ときどき中学生が来るんですよ。1年生なんか。その中学生にキャッチボールの相手をしてもらったり、練習の手伝いをしてもらう。そうすると、子供たちが中学行っても困らないわけですよ。例えばいじめにあわないとか」。

中学生との関係にも気を配っている。喜屋武さんの「少年野球で終わらさない」という思いは、大人になっても軟式野球のチームで活動を続けるOBたちの中で生き続けている。子供たちも「僕らは大人になるまで野球をやるよ監督」と言ってくれる。

400名を越える教え子たち

OBが大勢いて、さらに何十年も経ると全然顔も分からないということになる。

「学童の他のチームでうちのOBが監督とかコーチやっているのもいるけど、向こうから言われないかぎり全然気付かない。『監督』って来たら、あんた誰だったかねって(笑)」。

「たくさんOBがいるから、ちょくちょく来るんですよOBが。卒業して10年以内だったら分かるけど、それ以上になると話を合わせながら誰だったか考える。向こうが親しくしてくるので、お前誰って言いにくいから。話を合わせながら、思い出して、お前、誰々だったなと。そうすると、あーそうですよ、覚えていてくれていますねって(笑)」。

毎年、顔を出すOBもいる。例えば10年も20年も内地に行って仕事をしているOB。お盆休みとかで帰省すると必ずグランドに挨拶に来るという。

「新聞に載ったりすると、インターネット時代なので分かるから、すぐ電話くるんですよ。おめでとうとか。そのへんが救いですね」。

後継者のなり手が・・・

「年齢が年齢だから、そろそろって思っているんだけど後継者がいなくて」と話す喜屋武さん。

現在、コーチを務めるのはチームのOBたち。「彼らに引き継ごうとしたら、みんな尻込みして、監督のあとはちょっとやりにくいからって言って」。

3年前に心臓の手術と九州大会が重なったときがあった。喜屋武さんは、退院前だったが病院にお願いして九州に行かせてもらった。

そうするとチームは優勝した。それでも喜屋武さんは、コーチたちが皆頑張ってくれたおかげだと去年辞めることを宣言、いったんは監督を引き継いだものの、いきなり監督はできませんと言われ、元の鞘に。

「もう年だよ、いつまでさせるのって言ったら、あとしばらく、あとしばらくと切れ間がないわけ」。チームはまだまだ喜屋武さんを放してくれそうもない。

「熱いとき、寒いときは大変ですよ。皆が家に閉じこもるような寒い日にもウィンドブレーカー2枚着けてグランドに来て、震えながら子供たちを見ていますよ。毎日、気持ちは緩むってことはないですね。今日終わった、明日はどうする。そういったことばかり考えています。子供たちが学校でケガをしてないかなとかも考えますし」。

監督歴42年、喜屋武さんは今日もグランドに立つ。

 

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