花開いた遅咲きのエース

知念正弥(ちねんまさや)/ ビッグ開発ベースボールクラブ

2016-11-15

9月に行われた全日本クラブ野球選手権で初制覇を遂げたビック開発ベースボールクラブ。 そのクラブ選手権で最高殊勲選手に選ばれ、続いて出場した社会人野球日本選手権では敗れはしたものの連覇を狙う強豪日本生命を相手に3失点完投と力投。27歳の遅咲きエースが大舞台で結果を残した。

全日本クラブ野球選手権で最高殊勲選手に選出

クラブ選手権では一回戦、二回戦、準決勝に登板。2完投1セーブの活躍で最高殊勲選手に輝いた。

先発を託された初戦の茨城ゴールデンゴールズ戦。試合は1対1の同点で迎えた9回表にビック開発が一挙5点を奪い勝利を収めた。

この試合、知念は自責点0で完投。粘りのピッチングで相手打線を抑え、9回のビッグイニングを呼び起こした。

続く二回戦は、9回表に1点のリードを奪った直後の最終回のマウンドに上がった。緊張する場面だが、きっちり3人で抑え、最少得点差を逃げ切った。

そして、2度目の先発となった準決勝。好投を続けながらも2対1と1点リードの8回裏に同点打を許してしまう。しかし、タイブレークとなった延長10回、11回をそれぞれ1点でしのぐ力投。知念は11回を一人で投げ切り、味方を勝利へ導いた。

これらの活躍が評価され、見事、最高殊勲選手に選ばれた。晴れの舞台とは、ほど遠い野球人生を歩んできた知念にとって最高の賞となった。

高校時代はスタンドから応援

中部商業高では、3年間一度も背番号をもらうことができず、スタンドから応援した。

小学校5年生で野球を始めた知念は、中学1年から投手に専念するようになった。

「小学校の頃は、いろんなポジションをやっていたんでんすが、ピッチャーをやっていて楽しかったし、しっくりきてたのでピッチャーがいいかなと思って決めました」。山内中ではエースの座を射止めた。

しかし、チームは地区大会の二回戦止まり、県大会出場は果たせなかった。

その思いもあって高校は強豪校の中部商業高に進学する。ところが「高校に入学すると急にコントロールが悪くなりました。変化球が(ストライク)入らなくて、真っ直ぐも全然入らなかった。

コントロールめちゃくちゃ悪くて。それでも、あのときは思い切り投げていればいいやみたいな甘い考えだったんです」。球速だけは140kmに届いた。

しかし、練習試合に使ってもらってもコントロール悪いから結果が残せない。

「ずっと上(スタンド)ですね、背番号をもらってなくて。高校のとき、140は出ていましたが、周りのピッチャーも良かったんで。コントロールが悪いのが一番の原因。投げていてもどうしようもならないだろみたいな感じでした」。

公式戦登板は1イニングに終わった専門学校時代

高校時代に1度もベンチ入りができなかた知念だったが、野球を続けるために硬式野球部のある福岡の3年制の専門学校沖データコンピュータ教育学院に進学する。

専門学校の合格が決まったときに野球部の監督から言われたのが体重のアップ。

身長が180cmを超える知念だが、当時の体重は70kg。「野球部の監督から練習も大事だけど、とりあえず体重増やして福岡来いと言われ、そこから入学までの半年ぐらいで70キロの体重を82キロまで増やしました。一日7食とか、食べて食べて体格を変えました」。

入学後には、授業の合間をぬってウエートトレーニングにも励んだ。

しかし、コントロール難に加え、肘、肩の故障に見舞われる。ケガはその後も知念を苦しめることになる。

そのような状況で、1年からベンチ入りはしたものの公式戦での登板の機会はなかなか訪れなかった。

そして最後の3年目の社会人野球日本選手権の九州予選で1イニングだけマウンドに上がった。高校、専門学校を通じて初めてで唯一の公式戦のマウンドだった。

それでも野球がやりたい

学生時代に全く実績を残せなかった知念だったが、野球を続けたかった。卒業を前に企業チームのセレクションも受けた。

しかし不合格。

一般の企業に就職するしかないと履歴書を何通も用意した。それでも知念は野球をあきらめることに踏ん切りがつけきれず、ビック開発で野球をしていた同級生に一本の電話を入れた。

そこから道が開けた。ビック開発への入部できることが決まった。

「野球ができると分かったときには、よしよしみたいな本当良かった」。野球を続けられることに喜びと感謝を思い再び野球にチャレンジすることになった。

当時のビック開発には、高卒で3年、大卒なら2年で芽が出なければ退部するというルールのようなものがあった。知念自身も「それでダメなら辞めようかなと考えてここに入ったんですけど・・・」。

故障との戦い

「一年目は試合に投げていなくて、二年目からちょくちょく投げ始めて、三年目から投げさせてもらえるようになった。4年目の最初の大会で初めて完投して、そこからですね。ある程度試合を任せられるようになったのは」。

ビッグ開発に入ってもなかなか結果が出せなかった。好きな野球をさせてもらっている環境の中で結果が出せない焦り。肘、肩、腰を痛め、治って調子が良くなったと感じた頃にまた痛める繰り返し。

「3年目まで結果が出なかったんで、どうしようどうしようと正直焦りはありました。3年目が最後の年で勝負の年かなと考えていたのですが、そこでまたケガとかもあって」。

結果が出せない申し訳なさもあり、次だめなら終わろうと思いながらも、ケガをしたままで終わるのは納得できないという気持ちが交差していた。それを監督が前を向かせてくれた。

「普通だったらあれだけ投げられなかったら、辞めたほうがいいんじゃないかぐらいは言われると思うのですが、監督からは逆にこれで終わっていいのかと言われました」。

4年目のシーズンは肘痛から逃れるためサイドスローに転向した。これが功を奏し試合でも結果が出るようになった。しかし、やはり上から投げたいというのがあり一年で元のフォームに戻した。

コントロール難が早投げで改善

故障と同時に抱えていたのが、高校時代から続いていたコントロール難。「ビックには早投げと呼んでいる、投手が両足を着いた状態、足を開いた状態から投げる練習メニューがあるんですが、それをやり始めてから徐々にコントロールが良くなりました。3年目に入ってから少しずつ良くなってきて、4年目あたりくらいから形になってきました」。

ピッチング練習の前に行うメニューで50球前後を放る。このメニューをこなしているうちにコントロールが良くなった。

夢の舞台で奮闘

真の社会人野球日本一を決める日本選手権。遅咲きのエースは、京セラ大阪ドームのマウンドに立った。そして強豪日本生命に挑んだ。

結果は0対3と敗れたものの、最後まで投げ切り前年王者に楽な試合をさせなかった。

最初は緊張感もあったというが、いざマウンドに立つと試合に気持ちが入った。「あのときは緊張を考える暇がないくらい集中していて。楽しくやろうとずっと考えていたので、楽しく投げられたのが良かったです」と振り返った。

日本生命の強力打線に対し内角攻めの強気のピッチングをみせた。クラブ選手権では、真っ直ぐと変化球の割合を均等にして外角主体で打者を討ち取ったが、この試合は打者の内側を直球中心で攻めた。

「力があってガンガン打ってくるチームなので、かわそうとかではなくて攻めていこうと。日本生命とやると決まってからは、コーチやキャッチャーと話をして、右、左関係なく、当てってもいいくらいの気持ちで内の近いボールを使った組み立てでいこうと、ここ1、2ケ月練習をした。それが出せたのが一番良かった。今まで取り組んできたのが正解だったんだなと思いました」と知念は話した。

その知念だが大会直前に極度のスランプに陥った。「日本選手権の一週間、二週間前からストライクが入らなくて。練習試合で投げてもフォアボールを連続で出したり。試合前の練習でもストライクが入らなかったんで、先発はないかなと思うぐらいでした。たとえ先発しても、どうなるんだろうと不安だらけでした」。それでも監督は知念を先発に指名した。「開き直りました。とにかく今までやってきたことを信じようと」。

マウンドに上がった知念は甦る、与えた四球は一つだけ。MAX141kmの真っ直ぐでインコースを攻めた。

花が咲かなくても、ひたすら野球をやってきた。

「自分自身が試合に出て大きな舞台に立つようになったのは、ビックに入ってから4年目、5年目くらいから。もう一度、今までの野球人生をたどれと言われたら途中で辞めてしまうかもしれない。あれだけケガをして、あれだけ試合に出られなかったら。肩、肘が痛くて投げられないときは辞めたいなと思うこともあった。ケガが治っても、またやったらどうしようかと恐怖と闘いながらでした」。

でも今、知念は、野球を辞めなくて良かったかなと心底思う。高校時代にベンチ入りすら果たせなかった男が、ただひたすらに野球をやり続け、西武ドーム、京セラ大阪ドームのマウンドで躍動した。来年もまた全国クラブ選手権、日本選手権の舞台に再び立つために遅咲きのエースは新たにチャレンジを始める。

Profile

知念正弥

1989年9月13日生まれ。182cm、87kg
沖縄市出身。中の町小(武蔵)-山内中―中部商業高―沖データコンピュータ教育学院―ビック開発ベースボールクラブ
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