高校野球が目指したもの~2

沖縄県高等学校野球連盟60周年記念講演

2016-04-15

1956年2月1日に併設された沖縄県高等学校野球連盟は60周年を迎え去った2月7日、沖縄かりゆしアーバンリゾートナハにて記念講演並びに記念式典、祝賀会を行った。その記念講演の席で日本高等学校野球連盟理事の田名部氏が話されたことを、何回かに分けて記しておこうと思う。

60周年記念事業のオープニングとして、日本高等学校野球連盟の元事務局長で現理事を務められる田名部和裕氏をお招きした記念講演が行われた。田名部氏の演題は「高校野球が目指したもの」。そこで田名部氏が話されたことは実に興味深く、高校野球ファンのみなさまにとっても知識として頭にいれておかれてはどうだろう。以下に田名部氏が語られたことを記しておく。

1.戦後の野球復活とGHQ、CIEの指導関与

 1945年8月15日日本敗戦。佐伯氏は朝日新聞社を訪れ中等学校野球の復活を提案するなど東奔西走。しかしGHQ(アメリカ連合軍総司令部)とCIE(アメリカ民間情報教育局)が意義を唱えた。田名部氏「みなさん。何故、高校野球にはアウト・オブ・シーズンがあるのか分かりますか?」と語りかける。

戦勝国としてのアメリカ側から、様々な制約が当時の日本に課されたが、野球大会とて例外ではなかった。

GHQとCIE(以下G&C)は新聞社の単独開催を認めず、競技団体を結成して共催とすることを提案(全国中等学校野球連盟が結成。現日本高等学校野球連盟)。

さらに、G&Cは「アメリカではひとつの競技だけをずっと続けることはない」と指摘。

野球からフットボール、アイスホッケー、バスケットなど、アメリカの学生たちは様々なスポーツを経験していくことから、日本のように高校3年間ずっと同じ野球を、さらに1年中通してまでやり続けることに異を唱えたのだ。

さらにそれは、春の全国選抜大会の消滅をも意味していた。「G&C側は、全国大会は夏の選手権大会の年1回のみとすべきだと押し切ろうとしていたのです。ですが、佐伯さんが知恵を絞って対処案を提出されたのです。」(田名部氏)。

こういうと語弊があるかも知れないが、選抜大会はあくまで選抜であっていわば野球の祭典、祭りのようなものだ。

だから、実際には選手権大会ひとつが全国大会なのだということで佐伯氏はG&Cを納得(名称:第1回選抜高等学校野球大会)させた。さらに、戦後で物のない時代に、アメリカのようにいくつもの競技をすることは不可能であるとし、それに代替する形として、12月から翌年春の選抜大会までをアウト・オブ・シーズンとし、一切の試合を行わないとしてG&Cを説得したのだ。

高校野球のオフシーズンは、北海道や東北で野球が出来ない地域と比べて、公平性が保てないから導入されていると言われているが、実際はこういうG&Cからの圧力があった歴史からのものなのだ。

また当時の佐伯氏の働きかけが、春の全国選抜大会の現存に繋がっている。こうした功績をして、佐伯氏が「高校野球の父」といわれるゆえんとなっている。

2.日本学生野球協会の設立

 前年の1946年12月に日本学生野球協会が設立、学生野球基準要綱が制定され、学生野球の管理が日本学生野球協会に移管された。

田名部氏「戦前は、選手集めや有料試合で得た余剰金の使途が問題となりました。しかもアメリカと戦争をするということになり、敵国のスポーツをするとはけしからんということで野球統制令が公布されたのです。」と話された。

佐伯氏は、アマチュアスポーツがお上から制限を受けないと出来ない、正しい野球が出来ないということは嘆かわしいことだと述懐されていた。文部省による統制や弾圧は辛いものがあったが、それが自主的な組織である学生野球協会に移管された意義は大変大きいものがあった。

3.佐伯達夫と野球統制令

ここまで読んで頂ければ、次の田名部氏の言葉(佐伯氏の行動)は理解してもらえるのではないだろうか。「野球統制令は非常に厳しかった。

それで戦前のように、問題となることは絶対に避ける、二の轍は踏まないと佐伯さんは誓ったのです。」(田名部氏)。

佐伯氏の、不祥事に対するそれは、誰の目にも異常なまでのものと映った。野球部員同士の暴力事件はもちろん、消しゴム1個だけ万引きしても、連帯責任として部に出場停止を通達するという厳しさだった。

それが佐伯天皇と裏で陰口を叩かれることとなったが、佐伯氏の本心はそうではなかった。連盟は、どんな小さなことにも忠実であり続けることが必要であり、G&Cや戦前の統制令の厳しさを身をもって体験した人にしか分からない孤独な心を持っていただけなのだ。

選抜大会に出場を選考する際に、野球部以外の一般性とが起こした不祥事でさえ、「品位に欠ける」との理由で選考の対象から除外したこともあった佐伯氏。

CIEに示した「シーズン幕開けの野球祭としての招待試合である」との、夏の全国選手権大会との違いを鮮明にし、単なる全国大会ではないのだという色合いを強く出したものである。

そういう意味では、選考方法に少々問題があるとは言われる21世紀枠だが、夏の選手権大会と違い、秋の最強校ばかりを集めて行うのが選抜大会ではないということも、納得出来るのではないだろうか。時代の背景とその中で走り続けた英人たちを忘れて、目の前に見えるものだけを見て語ってはいけないと思う。

4.佐伯達夫と阪神淡路大震災

1995年1月、阪神大震災が起こった。兵庫県警は復興の妨げとならないよう「淀川から西へは一台も大会関係車両を通さない」とする交通規制対策を提示。

それでは第67回全国選抜高校野球大会の開催も危ぶまれる。田名部氏は兵庫県警との窓口として奔走。

その結果、「高野連さんは自ら厳しい規律を持っておられる。そちら側の提示する対策案を信頼しよう。」との言葉を引き出した。

その際、15年前に亡くなった佐伯氏の姿が浮かび涙を流した田名部氏は、続けて佐伯氏の姿をこう語った。

「佐伯さんはご自分の幕を知ってたのでしょうか。晩年、当時の会長代理であった牧野直隆(第4代日本高等学校野球連盟会長)さんが、佐伯さんに不祥事を起こした生徒や部への処分をもう少し緩和されてはいかがでしょうかと打診されました。そのとき佐伯さんは、自分も奏思うと語られたのです。」

佐伯氏も、処罰が重すぎるのは重々承知していたのだ。だが、一時で変えるわけにはいかない。段階を踏んで改善していくべきとの思いを胸に抱いていた。だが、自分にはもうその余命がないだろう。牧野さん、貴方の代でそれをやりなさいと、牧野氏と田名部氏の前で佐伯氏は涙をこぼしたという。

高校野球の父と呼ばれた佐伯氏。厳格な処罰で佐伯天皇と怖れられた佐伯氏。

もちろん、一所懸命練習に励んできた3年生たちが、下級生や一般生徒などの不祥事で部活停止に追い込まれ、夢だった甲子園への道を閉ざされて泣いてきたことは事実だ。しかし、そうせざるを得なかった長年佐伯氏の下で、高野連の事務局長として動いてきた田名部氏だからこそ分かる時代の背景と佐伯氏の素顔が、読者にも分かってもらえたのではないだろうか。

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