沖縄県高等学校野球連盟60周年記念式典が2月7日、沖縄かりゆしアーバンリゾートナハにて開催され、60年の歩みを振り返るとともに、今後の発展を祈った。

沖縄県高等学校野球連盟60周年記念講演(第1回)

2016-03-15

高校野球が目指したもの

日本高等学校野球連盟理事 田名部和裕氏

沖縄県高等学校野球連盟60周年記念式典が2月7日、沖縄かりゆしアーバンリゾートナハにて開催された。その60周年記念事業のオープニングとして、日本高等学校野球連盟の元事務局長で現理事を務める田名部和裕氏による記念講演が行われた。演題は「高校野球が目指したもの」。本誌では、今号より数回にわたり、本講演の模様をお届けする。

1.沖縄県高等学校野球連盟の設立

 前年の1955年12月に、鹿児島商業高校の沖縄訪問に、佐伯達夫日本高校野球連盟副会長(当時)が同行。沖縄県への連盟設立を提唱された。沖縄野球連盟理事長で沖縄タイムスの国場幸輝氏と、沖縄高校体育連盟会長の阿波根直成氏らが設立準備委員会で尽力。佐伯氏も規約作りを助言された。

2.佐伯達夫氏の横顔

弁当事件

 事件、と呼ぶには大げさだが、当時事務局を務められていた田名部氏に佐伯氏が600円ほどで弁当を発注していてくれと依頼。言われた通りの額で注文を済ませたところ、佐伯氏から思わぬお叱りを受けた。  

怒られるようなことはしていないと、腑に落ちない田名部氏であったが佐伯氏の言葉は次のようであったという。

田名部氏「田名部!高校野球は、観に来てくれているファンの方々の入場料などで運営していることは知ってるな。それを1円たりとも無駄にすることは決してあってはならない。

600円と言われて、590円、580円に出来ないものかと考えて欲しかったと。佐伯さんはそんなお人やったんです。」

手袋の使用禁止

 昭和54年頃、選手の手袋を禁止された佐伯氏。「なぜ高校野球だけが使用禁止なのだ!」と世間は騒ぎたて、ある日田名部氏のデスクに置かれた電話が鳴る。  

政府からのもので、返答に困っていた田名部氏から電話を取った佐伯氏は次のように話して一喝されたという。

田名部氏「僕の電話に出られた佐伯さんは、『あなた、そのようなことを言いますが、それじゃその手袋は誰が買うのですか?その選手の親でしょう。その費用は大変な額になります。裕福でない家庭の分は誰が出すのですか!』と。そういって電話を切りました。素振りなど続けると数ヶ月でボロボロになってしまうでしょう。それが3年間でいくつに上るのか。佐伯さんはそう考えておられたんです。」

3.球史から学ぶ高校野球の理念

我が国の野球事始め

 アメリカメイン州のホーレス・ウィルソン氏が、明治4年(1871年)8月、明治新政府が招聘したお雇い教師として来日。東京大学の前身である第一番大学区第一番中学で英語や数学などを教えた。  

翌年、ホーレス氏は勉強をするためには、まず身体づくりが必要だと説き、ベースボールを教えた。

何事も初めが肝心だ。高校野球や大学野球の学生野球は、野球が出来れば良い、との考えがありきではないことを知ってもらいたい。勉強が先で、それをもっと得るために野球をやって心身ともに健康であることが大切なのだ。

4.水野兄弟商会(現ミズノ)が関西学生連合野球大会を開催

 創業者の水野利八氏が、京都・第三高等学校などの活躍に関心を寄せ、大正2年(1915年)第1回大会を豊中グラウンドで開催。  

このとき、後の日本高等学校野球連盟会長となる佐伯氏も運営に協力された。「参加チームは学生らしく。審判は厳格に」と、大会の方針を決める。

10校が参加した決勝戦は京都二中(現鳥羽高校)と秋田中(現秋田高校)。延長13回の死闘は、サヨナラで京都二中の優勝。

なお、三高野球部は明治27年(1894年)、修学旅行で沖縄を訪れており、そのとき沖縄中学の生徒に野球道具の一式を贈呈。これが沖縄の野球事始めになったと言われている。

5.大阪朝日新聞社が全国中等学校野球優勝大会を創設

 大正4年(1919年)8月、朝日新聞社・村山龍平社長が大会の創設を決断。野球を通じて青少年を正しく育成するを創始の精神とした。試合に際し、礼に始まり礼に終わるは、第1回大会の開催要項に明記された。

6.監督がベンチから出てはいけないことについて

 「みなさん、なぜ高校野球は監督がベンチから出てはいけないのか不思議だと思います。」と田名部氏は語りかけた。それには次のような歴史があったからだということを、僕ら高校野球ファンは刻まなければいけないだろう。  大会当初、学校を代表する教員と選手11人のベンチ入りが認められた。ところが当時の引率教員は野球が良く分からない先生も多く、野球部OBらがベンチ脇まで来ては選手たちに指示を

出すなど、試合の進行に大きな支障が出たという。そこで第9回大会大正12年(1923年)鳴尾球場開催最後の年(翌年から甲子園球場での開催となる)から、監督一人をベンチ入りさせることになったのだが、「あくまで生徒の自主性を重んじるべし」「審判員の判定に、監督を関与させるのは好ましくない」などとして、プロ野球のように監督がベンチから出るようなことを禁止した。それが現在まで継続という形になっている。

7.文部省が「野球統制令」を公布

 昭和7年(1932年)、日本軍部が敵国であるアメリカのスポーツである野球を弾圧しようと文部省が野球統制令を公布。学生野球の乱れを懸念し、佐伯氏らは野球界に統一団体が必要であることを実感するようになっていく。  

そして太平洋戦争が濃くなった1941年、ついに地区予選の真っ只中で中止を余儀なくされる。これは第二次世界大戦が終了する1945年まで続いた。

 なぜベンチから出てはいけないのだろうか?ということにも、きちんとした過去の出来事の上に成り立っていることがお分かりになったかと思う。  

次回は、「高校野球の父」と呼ばれた佐伯達夫氏の功績とともに、何故高校野球にはオフシーズンがあるのか?について主に記していきたいと思う。

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