野球人が中心となり、島田叡氏顕彰碑の建立を実現
野球を愛した戦中最後の官選沖縄県知事島田叡氏の足跡を後世へ
2015-12-15
島田叡氏事跡顕彰期成会が2年間の活動を終える
沖縄がまさに激戦地になること必死の状況下の1945年1月に死を覚悟で沖縄県知事に就任。 6月に糸満市摩文仁で消息を絶つまでの5ケ月間、苦難な戦況化で、住民を守るため、県外への疎開業務や台湾からの食料の確保に尽力し、多くの県民の命を救った島田 叡(あきら)氏。
島田氏が野球をこよなく愛したことから、氏の足跡を残し感謝の気持ちを伝えようと、沖縄県野球連盟や県高校野球連盟を始めとする各野球団体など、県内の野球関係者が中心となって発足した「島田叡氏事跡顕彰期成会」が、平成25年11月。そして、多くの賛同を得て集まった寄付金と県からの補助金を得て氏の没後70年にあたる今年、奥武山公園内への顕彰碑の建立や野球資料館への島田コーナーの設置などを実現させた。このたび2年間の活動を終え、解散総会が行われた。
多くの賛同を得て顕彰碑を建立
期成会では、平成25年12月より、沖縄の野球の聖地ともいえる奥武山に顕彰碑を設置することや、野球資料館内への「島田コーナー」の設置、多目的グラウンドを島田氏にちなんだ名前にすることなどを目指して、署名活動を展開。集まった署名は、当初に目標の3倍にあたる31,398名分。その署名を携えて、那覇市、沖縄県への陳情、要請を行った。
そして、平成26年5月より顕彰碑建立等に係る資金造成のため募金活動を行い、県内外の企業、団体、個人から1000万円の寄付金が寄せられた。
主な事業の内容
1)顕彰碑の建立
沖縄の野球の聖地ともいえる奥武山の地に島田叡氏の功績を称える事跡碑を建立、除幕式を6月26日(氏が消息を断ったとされる日)に行った。除幕式には、翁長雄志知事ら県内関係者のほか、島田氏の出身地の兵庫県からも井戸敏三知事、久元喜造神戸市長や兵庫高同窓会「武陽会」関係者らが出席し、約400人が完成を祝った。顕彰碑は高さ2・8メートル。「琉球」を象徴する石灰岩の台座と、「平和」や「ボール」をイメージしたステンレスの球体を組みあわせた。
2)パネル展「第二十七代 沖縄県知事 島田叡」の開催
事跡碑の除幕式に先駆けて、6月21日から26日まで那覇市営奥武山野球場(沖縄セルラースタジアム那覇)の玄関ホールにて、島田氏の足跡を振り返るパネル展示を開催。「沖縄の島守」と呼ばれた理由や「全力を傾けベストを尽くすスポーツ精神―野球人・島田叡の球魂」など、島田叡氏を紹介した。
3)島田叡氏展示コーナーの設置(野球資料館)
那覇市営奥武山野球場(沖縄セルラースタジアム那覇)内にある・野球資料館の一角に『甲子園への夢をはぐくんだ「島田杯」と高校野球』と題した常設の島田叡氏展示コーナーが設けられた。現在、三つあるうちの二つの「島田杯」の優勝カップが展示されている。
4)DVD「生きろ」「島守りの塔」の贈呈
「将来を担う若者に、島田さんを通して沖縄の歴史や平和への願いをぜひ学んでほしい」と島田氏を描いたTBS報道ドラマ「生きろ」と、「島守の会」が制作した「島守の塔」のDVDそれぞれ100本を贈呈した。沖縄県教育委員会を通じて県内高等学校及び教育機関へ配布された。
5)「記念誌」「わたしたちの戦争体験⑥-沖縄―」の贈呈
島田叡氏事跡顕彰事業記念誌700冊を沖縄県教育委員会を通じて県内中・高等学校及び公立図書館等に配付。また、島田氏や県庁・警察職員をまつる島守の塔について書かれた「わたしたちの戦争体験⑥-沖縄―」280冊を県内すべての小学校に配布した。
6)新たな島田杯の贈呈
島田叡氏の名前を冠した優勝カップ「島田杯」を3つ新しく製作。11月12日に島田叡氏事跡顕彰碑の前で贈呈式を行い、県野球連盟学童部、県中体連野球専門部、県中学校硬式野球団体へ贈った。 島田杯はこれまで、県高校野球新人大会の優勝校に贈られていたが、これからは、学童野球、中学校野球から高校野球の島田杯へとつながる。
7)「沖縄・兵庫友愛記念グランド」名表碑の建立
顕彰碑に隣接する多目的広場の名称を「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と命名、その名表碑を建立。グランドバックネットにも名称看板を取り付けた。スポーツを愛した島田氏が青少年の躍動する姿を思い、沖縄・兵庫、両県の「絆」の一層の発展を祈り命名された。
島田叡氏の功績を広く伝えようと野球人が中心となり活動
戦後70年という大きな節目の中で、沖縄県民のために命がけで働いた島田沖縄県知事という方がいたということを県民に広く知ってもらって、みんなで島田氏を顕彰していこうと野球関係者が中心となって島田叡氏事跡顕彰期成会は発足した。
島田氏は、沖縄が困難な状況のときに沖縄赴任を決断し、他の役人が断る中、沖縄に来た。嘉数会長は、そこには島田氏の人生観、生き様があったのではないかいう。
そして、野球人としての最後までベストをつくすことや、フェアプレイの精神など、島田氏の生き方のバックボーンに野球というのがあったと思うという。
戦後になっても、島田さんの縁(えにし)で、1964年に母校の兵庫高校の顕彰会から島田杯が沖縄県高校野球連盟に贈られた。そこから、今日の沖縄の高校野球の発展にもつながっている。
嘉数会長は「そのようなこともあり、我々野球人は感謝をしています。その後も、兵庫県民からは、県民募金で兵庫友愛スポーツセンターも奥武山にいただいた。その当時は各学校に体育館がない時代。若い人たちのスポーツ振興とともに、離島、やんばるから那覇に遠征に来た選手はそこの宿泊施設を利用しました。
そういう面もあり、島田さん自身の数々の功績と、その縁で兵庫県民から受けた数々の好意に対する恩義がありました。そのウンジケーシっていうのは、我々沖縄県民としては大事なこと。そういうことから、野球人が声を出そうということから始まりました。」と話す。
期成会では、野球関係者が中心となり県民に広く呼びかけを行い、その輪が広がり、1万人が目標だった署名も3万人を突破。そして県民募金を行い、県民から多くの浄財が寄せられて、顕彰碑を野球の聖地である奥武山に建立するに至った。
さらには、それと関連して兵庫県とのいろいろな交流も行われた。顕彰碑が建つ場所は、兵庫沖縄友愛ゾーンいうことで顕彰碑と兵庫沖縄友愛グランドと以前の友愛スポーツセンター(跡地の碑)のトライアングルが形成さている。
また、事業の一環として、新たな島田杯が三つ創られた。
嘉数会長は「沖縄の野球のすそ野、特に高校野球のすそ野を広げて強化することに役立てられたらと思い、島田杯を3つ創設をして野球連盟の学童部、中体連、中学硬式野球の3団体に贈呈しました。
少年野球、中学野球とそれぞれの団体で島田杯があれば、後世に伝えることになるのではと考えます。そのようなことも残せたので良かったと思います。」と新たな島田杯について語った。
活動を続ける中で予想をしていないかった嬉しい出来事もあった。島田県知事と苦労をともにして二人三脚で奔走し、県民保護に尽力し、摩文仁で亡くなった当時の沖縄警察部長の荒井退造氏の母校の宇都宮高校の校長先生から、島田杯を授与している高校野球新人大会で準優勝校に荒井杯を贈りたいとの提案をいただいたのだ。
このことを県高野連に伝えると、「喜んでお受けする」と実現する運びとなった。嘉数会長も「暗中模索をしながら取り組んだことが、皆さんの応援のおかげでここまでこぎ着けることができ、こういう新たな話題も生まれてきて、大変嬉しいことです。
野球関係者が中心となってやったことが一番良かったと思っています。純粋な県民運動、いいチームワークでここまでやって来ることができました。」と喜びを語った。
また、このようなこともあった。期成会を立ち上げたときに、最初の島田杯が行方不明になっていることが話題になり、そのことがテレビで報道された。
すると「私が預かっています」と行方が分からなくなっていた最初にいただいた島田杯が見つかったのだ。
このニュースによって一般の人も島田杯知ることになった。高校球児も島田杯についてより価値を実感できるようになったという。
今年の12月には島田氏の母校の兵庫高校の生徒が修学旅行で沖縄を来る際に顕彰碑を訪れるという。
また、顕彰碑をボランティアで清掃してくださる方も出てきた。那覇高校では、毎年慰霊の日の前日に二中健児の塔の清掃を行っているが、来年から野球部は顕彰碑の清掃を担当することが決まったという。
「野球関係者が一丸となって取り組んだことが活きてきたのだと大変喜んでいます。組織としては解散したのですが、これに関わったお互いが、今後も広く伝えていく役割を引き続き担って発展させていこうと話し合っています。」と嘉数会長はこれからも野球を愛した島田氏の功績を皆で伝え続けていくと話した。