「ヒッティングチャンス」200回放送記念スペシャルトーク(最終回)
ゲスト 我喜屋 優氏(興南高校理事長兼硬式野球部監督)
2015-06-01
東海大相模を下し、春夏連覇を達成
當銘氏「そして決勝戦、東海大相模に圧勝で優勝。」我喜屋氏「どちらかというと、報徳学園のピッチャーと比べればね。相模も戦力的には揃っていて、大城兄弟もいたし。
ある意味、まともに戦っていたら、ということも考えられないこともないけど、ただ年間を通して作り上げてきた選手たちは凄く落ち着いていたし、春も夏も優勝候補と当たって勝ってきた。
相手よりもまずは自分たちだぞという雰囲気があって、選手間のミーティングでも僕が、早く終われよと言うくらい(笑)。
甲子園でうろたえるようなチームでは無かったですね。
甲子園来て、相手を観察しようぜというよりも、やってきたことをそのままやればいいだけでね。
でもやっぱり年間を通してね、自分が作り上げてきた選手でなければ、そういうことは感じられないですよ。それを他校の方々もなんとなく分かっていたのでしょうね。
報徳学園の永田監督が試合後に語った話ですが、5点奪ったけど足を封じられたときに『負けるな』と。
興南がやけに落ち着いてみえて、敵の監督さんも選手たちも勝つ気がなかったというのですね。
引き離したはずなのに、振り返ると後ろにいて襲いかかってくる、そんなイメージを持っていたのではないでしょうか。」
當銘氏「5点もリードしているチームが不安になる」
我喜屋氏「あるのですね。3点、4点取っているのに早く9回になって試合が終わってくれればいいなというね。」
當山「そういった意味でも、チームにとって引き出しが多ければ多いほど良いのですね。足が自慢だけど封じられたときに、そうきたか。ならばこちらもと、次の攻めの引き出しを開けられる。」
我喜屋氏「そうですね。逆にビハインドのチームが、ぐっとこらえているときに相手がつぶれていく。
それが高校野球なのですね。相模戦で、ウチのランナーがサードにいてスクイズを仕掛けた。
相手は外してきて、もちろんキャッチャーは三塁へ投げようとしますね。
ところがあのときは、ウチは外されても三塁に戻れる距離にいた。
相手はしてやったりでアウトを取ろうと投げたら暴投。
あれはウチの作戦でもあったのですけどね。
報徳学園戦でもサードゴロになって相手は併殺と思ったかもしれないけど、二塁へ暴投してウチが息を吹き返した。
裏を返せば、野球というのは小さなことがウチの勝利に貢献するし、小さなことで相手に白星を与えてしまう。
相模戦での13点は相手のミスも絡んでの得点差。それでも相手も最後まで諦めずに戦ったということで、優勝の価値というものも随分変わったのでしょう。」
當銘氏「あのゲーム、どのイニング辺りで夏の優勝ということをよぎりましたか?」
我喜屋氏「いや、いつどこで野球はひっくり返されるか分からないというのはありますが、慎重に戦えばウチは大丈夫だと。
一二三くんは投げ方を変えて苦労してきたものでもあったから、一回捕まえてしまえばウチの選手は離さないから。打つべき球も変化球を絞ろうと。途中から向こうは投げる球が無かったはずですよ。」
當銘氏「そして優勝。我如古キャプテンの『県民で勝ち取った優勝旗です』と。」
我喜屋氏「あのセリフは、僕が言おうとした(一同大爆笑)。
でも僕は、相手のベンチを見て、点差が離れても最後まで頑張ってくれた東海大相模の選手たちは立派だったということをね。
負けたアルプス側からも拍手やウェーブもやってくれたしね。
向こうにありがとうございますと頭を下げましたね。
沖縄のみんなもね、泣いて、ついにこの日が来たのだなという、歴史的な繋がりの中で今があるのかなと。
我如古も立派な発言をしてくれて、県民だけでなく全国のファンにも感動を与えたという意味では、子供たちも成長したなと思いましたよね。」
當銘氏「空港でも凄い人たちで。私もあの中の一人でした。」
我喜屋氏「機長さんもね、真紅の優勝旗がついに沖縄に渡りますと言ってくれて、乗客たちも大きく拍手してくれた。
そのときの乗務員も全て沖縄出身の方で固めておりますと言ってくれてね。
ほんとに気配りが嬉しかったですね。
裏話ですが、空港に降りたら職員の方が『3千人ほどのファンが居て、警察だけでは警護は無理ですので、みなさんの安全を考えて裏口から出します』と。
でも社長さんが来て、『冗談じゃない。家族も来ている中でどうして裏から出せるか。安全は保証するから表から出す』ということだったのですが、安全はそこまで保証されていなかったですね(笑)。
でも、おじいちゃんもおばあちゃんも泣いている姿を見て、我如古の言ったセリフは本当なのですよと、長い間待ち続けてきた日が来た。良かったですねと、言ってあげたかったですね。」
當銘氏「いまはパレードが禁止されている。」
我喜屋氏「されてますね。昔はね、僕らの頃はドルを円に替えて甲子園に行った当時は、船で鹿児島へ着き、そこから汽車で向かって行ったのですが、あの時分は甲子園もね、試合後は堂々と正門から選手たちを出してくれた。
そこで、応援してくれた県人会の方々と握手をしながら帰ったけど、いまは試合終わったら、一般の人たちが待っているところとは全く違う場所へ向かい、バスに乗り込んだら青信号になった瞬間、ドンっていっちゃうくらい(笑)。」
當銘氏「監督が主将として興南旋風を起こしたときは国際通りでパレードでしたよね。」
我喜屋氏「いまも昔も国際通りの込み具合は変わらないけどね。
おばあちゃんと子犬一匹だけの写真を見たときに、誰かが台風の後ですかと。いや違うと。
県庁やら会議やら全てがストップ。病院や歯医者さんも全然看てくれなかったということが、あの時代ですよね。
県庁前から安里に抜けるあの奇跡の一マイルがね。
あの白黒写真を見るたびに、春夏連覇よりも凄かったなぁという気がします。」
當銘氏「具志堅用高さんだったりと、昔はあったパレードでしたね。学校へ戻ってからもちろん」
我喜屋氏「体育館でね。応援に行けなかったファンも集まってくれて。
寮の周りにも人の山が出来てね。すいません、近所の方々のご迷惑になるのでお帰りくださいと言ったら、逆に近所の方が『良いよ、もっと騒いでも』なんて言ってね(笑)。
あの夏が終わってもこの調子だから、次のチーム作りが遅れるのはしょうがないですよね。
国体も控えてましたから、ここまで来たら国体も制覇しようとね。
仙台育英に勝って、さぁ次というところで雨に降られてねぇ。こんなんだったら早く2年生のチームに切り替えときゃよかった(笑)。」
當山「それでも秋優勝ですからね。」
我喜屋氏「そうでしたね。でもね、チャンスを掴みそこねると、そこからあっという間に優勝から見放されるというのも高校野球なのですね。
選手はホント良く頑張っていますし、ゲームを落とすのは我喜屋の責任だということは明白なのでね。頑張りたいと思います。」
興南学園理事長としての我喜屋氏
當銘氏「理事長ということで普段はスーツを着て、土日はグランドでユニフォームを着てと。」
我喜屋氏「出来るだけ、シーズン中はグランドに出るということをね、副校長さんたちに頑張ってもらって僕の荷を背負って、僕にユニフォームをとね(笑)。
生徒は中学校も合わせて千三百人ほど、先生方も百人超えます。
僕は経営者として先生方にもちゃんとお給料を払わなければいけない。学校も力強い体力のある学校として継続していかなければならない。そのあとに部活があるわけですから。」
當銘氏「今だから言える理事長就任のことを是非。」
我喜屋氏「理事会というのがありまして、春の選抜で優勝したときに話があった。
まさか?とは思ったけど、理事会で決定済。この学校、何も考えていないなと(笑)。
春の全国で優勝した野球部の監督は、もちろん夏に向けて連覇の準備をしていくでしょう。
全国で1校しかない連覇のチャンス。最初は理事長になれということは、夏を捨てろということなのかなとね。
でも逆に燃えた。
そして連覇して戻ってきたら、前任の方が定年で辞めたので校長を誰にするかという話が出てね。
誰もいないの?分かった自分がやるよと(笑)。
でも経営に目を向けるとね、自分が兼任して身を切る方がね。
僕はどちらかというと、率先してやるタイプ。そうしないと人に言えないしね。
これらのことを知らない周りは、4つも仕事を持って欲張りだね、みたいなことを言うけど、4人分の仕事で1人分の給料しか貰っていないからね(笑)。」
我喜屋氏「北海道生まれのかみさんは、沖縄についていく、というところまでは良かったけど、きっとダイビングしたり泳いだり、離島へ行ったりということを夢見ていたはずなのだけど、ここ何年間かは寮母として子供たちの母親がわりとしてね。
でも、この人と結婚したのだから、こう(野球漬け)なることは分かっていたのではないですかね(苦笑)。
北海道の女性はある意味、雪国の根性を持っていて人の言うことを聞かないところもあるけど、でも言い聞かせるのは沖縄の監督しかいないと(笑)。
よそ様の前ではそう言ってますが、家に帰ると怖いです(笑)。
選手が誕生日のときとかね、かみさんに、いつまでも僕たちのマドンナでいてくださいと寄せ書きをする。
だけど、監督ありがとうと誰も書いてない(一同大爆笑)。」