「ヒッティングチャンス」200回放送記念スペシャルトーク(その2)
ゲスト 我喜屋 優氏(興南高校理事長兼硬式野球部監督)
2015-05-15
春センバツ優勝も選手たちは初心へ
當銘氏「春の選抜で優勝したあと、たくさんのお祝いの花が届いてすぐに、もう片付けましょうと選手の方から話があったということもありましたよね。」
我喜屋「春優勝して、大阪住之江公園を散歩したときに、昨日優勝したのだから、今朝の散歩は課さなくても良いかなとも思ったのだけど、やはり夏へ向かってのスタートが大事だなと思い、あえて起こして散歩させて。1分間スピーチもさせた。
これがまた良かった。桜の花が満開の状態だったので、『自分たちの優勝を、花々や木々も祝しているかのようです』と。そうやってそこでまたひとつ、根っこに釘を刺していくわけです。
花、枝、幹、それらを支えている大事な根っこを、もう一回初心に帰って根っこ作りを始めるぞと。
根っこの役割を担っている目立たない選手たちを、もっと大事にしようやと。絶対に裏切らないで行こうと。
それでチームがひとつになった。
春、全国優勝するとチームがバラバラになる可能性はあるのです。主役だけ目立って控えの俺たちは、と。
だけどどちらも縁の下の力持ち、見えない箇所こそ力があるのだということを彼らは分かってくれた。
優勝した今は、花が満開のように気持ちもそうだけど、はやく片付けて次に進もうと、もう喜んでいる場合じゃないよと選手たちが分かっていたからこそ、の言動だったと思いますね。」
5点差を逆転した夏の準決勝・報徳学園戦
當銘氏「選抜決勝の日大三高との試合。5対5で延長へ入って、12回で一気に突き放しました。」
我喜屋「そうでしたね。これは夏の選手権の話になりますが、準決勝の報徳学園戦でもいきなり5点取られて、その前の聖光学院との試合もそうだけど先制点を奪われている。
全体的には島袋だけのチーム、ではなくて、ミスをみんなでカバーする、もしくは相手のミスにつけ込むといった、瞬間的な集中力はありましたよね。
それを突破口にして大量点に結びつける、平均得点は8.5くらいありましたからね。
9回まで考えたら、お前たちには力があるから焦るなと。かえって焦ると大振りしてしまうなどやってきたことの根っこの部分から外れてしまうからと。
そういうことを言い続けながらの大会でしたね。
私はどちらかというと腕を組んで前を向いているだけで、ある解説者は『さすがはベテラン監督。先制されても逆転されても動じませんね』と。僕は彼らを信頼して何もしなかっただけでね。」
當銘氏「そのときはもう、選手に『これだけやってきたのだから大丈夫だよ』と。」
我喜屋「言葉だけでなく裏付けがね。甲子園というところはテレビに映ったり新聞に載ったりして表はみんな見えますよね。
目に見えない部分でお前たちは、甲子園でのひとつの危機管理(ピンチの場面での対処)は興南でやってきたでしょうと。
甲子園来てジタバタするようでは終わっているよと。
周りは、目の前で見る逆転劇はね、凄く強い子たちだなと見えたかもしれないけど、その準備は興南で、沖縄でやってきた。
だからそこ(甲子園)であえて、どうのこうのいう必要はないわけです。
結果、自分たちで伝えあっていたし、監督が言おうとするところはすでに選手同士で『出塁しろよ、ちゃんと送るから』とか『風が強いから後ろな』とか、『相手のこの打者は足が速いぞ』とかね。
挨拶と一緒なのです。挨拶の「あい」は伝えること。「さつ」は分かったよと伝え返すこと。俺に任せろよ!も挨拶だし、分かった。ちゃんと返せよと言い返すことも挨拶。
チームメート同士でやっていたし、攻守交替もドンマイドンマイと、人ごとのように飛び跳ねてベンチへ帰ってきていたしね。
こっちが心配して、お前たちホントに人間かよ?5点も取られているのだぞ?と(笑)。そういう切り替えが彼らは鋭かったですね。」
當銘氏「5点を先制されたその夏の報徳学園のゲームでも焦りを感じることがなかったチームですか。」
我喜屋「そうですね。でもそのときはちょっと報徳学園が変わったなぁと僕思って。
春の解禁後に1度練習試合をやってそのときはウチが、島袋ではなく砂川を投げさせて、かろうじて1点差くらいで勝ってはいるのですね。
それがあったものだから、夏の準決勝で、まぁ島袋は打たれないだろうと思っていたら、完璧に真っすぐを捉えられて5点を失った。
でもそこでひとつの「あい」と「さつ」があった。
誰かが気づいて、おそらく我如古だったんじゃないかな。
『真っすぐが狙われているんじゃないか?変化球から入ったらどうだ?』という「あい」があったときに、島袋と山川のバッテリーは分かった、と「さつ」で返したのですね。
そうして変化球主体のピッチングに変えたら、向こうの勢いがピタっと止まった。
向こうに対して僕らが警戒しなきゃいけないのは報徳学園の足。
山川はその足さえ封じ込めば、こっちのペースになるというひとつの打算を持っていた。
(試合後に聞いたら)報徳学園側は興南との試合で奇跡を起こそうぜと言っていた。
興南が選抜で優勝したときに、何をやったらこんなになれるのかと調べたらしいのですね。
散歩のあと1分間スピーチをしているよと、服装もきちんとしているよと。
そういった裏の部分を報徳学園が真似たというのですね。
当時のチーム(報徳学園)は甲子園でベスト4まで進めるような、そんな強さを持っていなかった。」
※報徳学園は09年の秋季県大会で3回戦敗退。だが選抜が終わった4月以降、春季県大会で優勝しただけでなく近畿大会でも優勝。そして選手権大会準決勝で興南とぶつかった。
我喜屋「それがあそこまで上り詰めたというのは、興南同様に選手同士が話し合って出来てきた人間力ですよね。
(準決勝後)後からその話を聞かされて、危なかったなぁと。
確かに変わってましたね、春の報徳学園と、夏で対戦したときの報徳学園は。ところが、その報徳学園も武器である足を山川に封じられた。
点を取られているときも走られて、少し動揺が走ったけども、山川は逆に観察して『やっぱり走ってくるな』と。
そうやって次に走ってきたとき山川は封じた。
1番打者のセーフティーも、サードの我如古が前に意識を置いた守りで封じる。
左中間や右中間に持って行かれたときはこうやろうぜと、連携プレーにも「あい」と「さつ」があるわけですよ。
相手の精神力をウチが上回っていた、という意味では目に見えない戦いをウチは制していたということだったのです。」
我喜屋「4番の真栄平もドン底状のスランプ。でも私が彼に言ったのは、とにかく4番なのだから振れと。
尻もちついた世界一の三振をしてもいいから、とにかく振れと。
振らなかったら取っ替えるぞと。
4番を背負うプレッシャーと、向こうが勝負を避けた遊び球にハマッちゃった。
マスコミやOBから、打てない4番をいつまで使うんだとざわついていたよね。
でも僕は彼を代えなかった。
我喜屋野球、興南野球の象徴でもあるゴミ拾いだとか1分間スピーチとか整理整頓など。
彼は率先してそういう嫌なことをやってくれた。そうやって作ってきたチーム。
でも、全国の人たちやマスコミは、そういう見えない部分は知らないわけですよ。
僕は24時間一緒になっている親と同じで、ときに癒してあげ、そして期待し続けるのも僕ら現場の仕事なのですね。責任はオレが取るからと。
結果的にセンター前への逆転打を決めてくれた。
あぁ、高校野球ってこうなのか、教育ってこうなのだなと。
もしあのとき、真栄平を代えていたら彼は一生、打てなかった選手とレッテルを貼られて人生を送らなきゃいけない。
でもあの一打で、アメリカ遠征組にも選ばれたし、大学、そしてJR東日本にも入れた。」
當銘氏「それにしてもゲーム中の監督は落ち着いてらっしゃった。」
我喜屋「ゲーム中は明るく振舞っていますけど、勝ってはじめて、あぁ良かったなぁと安堵してね。
(我喜屋氏が主将を務めた)昭和43年夏の50回大会で、同じ関西の興国に14対0で負けた。
(5点取られて)また同じ負け方をするのかなと脳裏をよぎったりもしたけど、あのとき勢いで勝ち進んだ興南と、選抜を制してきた興南とは違う。
こちらはドンと腰を据えて且つ、春よりもグレードアップしてきたチームだったということ。
(相撲で言えば)蹴たぐりでグラっときたけどそこで踏ん張って、それ以上後ろには引かないぞと点をやらなかった。
1分間スピーチなどで培ってきた、小さなことに気が付くということ見本があの報徳学園戦だったのです。
「あい」と「さつ」で、励まし合う、注意し合う。小さな気づきの集合体ではあったけど、それで大きな結果になるなという予感はありました。
(ベンチでは)落ち着いたフリでもしないとねぇ(笑)。僕が動揺すると選手たちもそうなるし、それが監督としての振る舞いなのですよね。」
當銘氏「やっぱり選手というのは監督のそういうことにも敏感に反応するのですか?」
我喜屋「私は大昭和製紙で、社会人野球で2度も優勝させてもらって、北海道に移ってからは4年間一度も黒星のない戦いもしてきました。
でも当時の私は、高校野球をあまり知らなかったけども、そういったことを積み重ねてきた私の堂々とした振る舞いを見てね、もしかしたら選手の中には『なんか、俺たちの監督は臆してないな』とかね。
そういったことをよく感じるのが選手なのです。監督がビクビクおどおどしていると、弱くなる。
そういうところから隙を見せないようにしなきゃ。相手は強いけど、ウチは絶対負けない!とか普段から言っておかないといけない。じゃなきゃ選手がそれを感じ取ってしまう。」