球場内の野球資料館内には「島田杯展示コーナー」を設置

島田叡氏(戦中最後の沖縄県知事)顕彰碑を奥武山野球場(沖縄セルラースタジアム那覇)正面広場に来年6月建立

2014-12-11

11月20日、「島田叡氏(戦中最後の沖縄県知事)事跡顕彰期成会」の第4回総会が城岳同窓会館で開催された。

島田 叡(あきら) 氏は、沖縄がまさに激戦地になること必死の状況下の1945年1月、死を覚悟で沖縄県知事に就任した。6月に糸満市摩文仁で消息を絶つまで、住民を守るため、県外への疎開や台湾からの食料の確保に尽力した。島田氏は、高校、大学を通して野球人として活躍したことも知られており、現在、県高校野球の新人中央大会で優勝した学校には、氏の出身地である兵庫県から贈呈されたトロフィー「島田杯」が授与されている。

その島田氏の足跡を残そうと県内の野球関係者らによる島田叡氏事跡顕彰期成会」が設立されたのが昨年の11月。沖縄の野球の聖地ともいえる奥武山球場(沖縄セルラースタジアム那覇)に顕彰碑を設置することや野球資料館内に「島田コーナー」の設置、多目的グラウンドを島田氏にちなんだ名前にすることなどを目指して署名活動、募金活動を行ってきた。そして、多くの賛同を得、約600万円近くの寄付金が集まり、氏の没後70年にあたる来年の6月26日(氏が消息を断ったとされる日)、奥武山の地に顕彰碑が建立されることが決まった。

総会では、顕彰碑のデザインと碑文、友愛記念グランド碑、野球資料館への「島田コーナー」の設置などが報告提案され承認された。

顕彰碑のデザイン

顕彰碑は、 「祈り」「命」「平和」「絆」をコンセプトに、高さ3mで石灰岩とステンレスの球体で造型される。石灰岩は(琉球)とステンレス球体は(希望)を表し、県内の中学、高校の球児にとって聖地となるモニュメントにすべく「一球入魂」の想いを込めて制作する。また顕彰碑を中心とした直径5.5mの空間を「島田叡ワールド」とし、4つの碑文板を設置する。碑文板は、正面「事跡顕彰碑・建立の碑文」、右側「至誠の人・島田叡の素顔」、左側「野球人・島田叡の球魂」、後方「誌碑(仲宗根政善・竹中郁)」とすることが決まった。

ここで、島田叡氏をよく知らないという方のために、正面に設置される「事跡顕彰碑・建立の碑文」と左側に位置する「野球人・島田叡の球魂」に刻まれる文面を紹介する。

《建立の碑》

一九四五年一月、風雲急を告げる沖縄に島田叡(あきら)は、大阪府内政部長から第二十七代県知事として赴任した。その頃の沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。

 以来、五か月に及ぶ苦難な戦下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。

 最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最後を遂げ、摩文仁の「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(四六九柱)とともに祀られてします。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年四十三歳(兵庫県神戸市須磨区出身)。

 また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底しつながっていたと思われます。

一九六四年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園への夢を育み、大きな励みになりました。

 一九七二年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛連携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。

 この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって大きな宝になるものと信じます。

 ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事跡を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心より祈念します。

二〇一五年六月吉日
島田叡氏事跡顕彰期成会
会長 嘉数 昇明

《野球人・島田叡の球魂》

「スポーツ・敢闘精神」

「劣勢としりつつも、なんとかならないかと知恵をしぼり、あくまでも全力を傾けベストを尽くすこれがスポーツ精神。・・・叡さんは生涯、それを実行した。」 (三高野球部球友の回想)

「俊足、強肩、巧打の花形選手」

旧制第二神戸中学校(現・県立兵庫高校)、第三高等学校(現・京都大学教養部)、東京帝国大学(現・東京大学)で野球部レギュラー/主将としてチームを牽引。東大三年時には三高の監督も務めた。精神的野球ではなく頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁生還をめざした。

野球殿堂博物館(東京ドーム)には、戦没野球人の一人としてその名が刻まれている。

「沖縄高野連に贈られた島田杯」

「島田さんとスポーツ精神とは生涯を通じて一貫したものである。この機会に・・・島田杯を沖縄の高校野球連盟に贈呈する」     (昭和39年兵庫県島田叡氏事跡顕彰会)

さらに島田氏のご縁で、千葉県からも島田杯が贈られている。それらの優勝杯は沖縄県高校野球の隆盛に寄与している。

「球場に島田知事の名前を」

旧制三高時代の一年後輩で、野球部で二年間一緒だった東大教授/英文学者・中野好夫氏(沖縄資料センター設立者)は生前、沖縄戦で戦死した先輩を偲んでこう要望した。「将来、沖縄に野球場ができるなら、戦時中に住民のために奔走した故島田叡さんの名を記念につけてもらえないだろうか」

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